ミュージアムINFO

12月

     12月

我孫子市制施行50周年記念
「清さん、お帰り。山下清展」

日程: 2020年11月21日~12月20日
場所:我孫子市生涯学習センター・アビスタ
主催:我孫子市、我孫子市教育委員会
協賛:我孫子聖仁会病院、特別養護老人ホーム・アコモード、特別養護老人ホーム・アクイール、今井タクシー
協力:山下清作品管理事務所、弥生軒、トンボ鉛筆、富田様、山下画伯にゆかりのある個人の方々
企画協力:ステップ・イースト

入 場 料:入場料一般700円、障害手帳をお持ちの方および小学生~高校生300円。未就学児、障害手帳をお持ちの小学生~高校生及び障害手帳をお持ちの方の介助者1名まで無料



 

我孫子市制50周年記念式典


開催日:令和2年12月23日(水曜)

開催時間:午後2時から3時30分

会場:けやきプラザふれあいホール

山下清の素顔に迫る
「清さん、お帰り。山下清展」

山下清展――旅の途中、我孫子市の駅弁屋に住み込み、足かけ6年滞在した「放浪の画家」山下清(1922~71)の作品展が同市生涯学習センター・アビスタで開かれている。「長岡の花火」(貼り絵)などの代表作を始め、生い立ちから晩年までの作品が展示され「日本のゴッホ」とも称された山下のゆかりの地で素顔に迫ろうとしている。

写真:我孫子二階堂高校書道同好会の石橋つかささん(1年)らが書いた吊り看板

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同市などが市制施行50周年を記念し「清さん、お帰り。山下清展」と題した企画展。山下がぶらりと我孫子に現れたのは1942(昭和17)年。「あそこに行けば食いっぱぐれはないだろう」と人づてに聞いて我孫子駅前の駅弁屋・弥生軒(現・立ち食いそば店)に飛び込んだ。

 

弥生軒の包み紙「来るものは拒まず」の弥生軒が受け入れたが、しばらくすると、ふらっといなくなっては帰ってくる生活だった。店の主人が「清、心配で捜したぞ! ばかやろう」と怒っても、本人は「帰ってきたんだから、ただいまだな」とケロッとしていたという。弥生軒には画家として有名になってから作品を贈り、駅弁の包み紙のデザインにもなっている。

 

 

写真上:弥生軒で働いた山下画伯の作品が弥生軒の駅弁の包み紙になった

 

 

山下は東京・浅草生まれ。幼い頃に重い消化不良で高熱を出し、言葉がどもる後遺症が出た。小学校時代はいじめられるようになり、たまりかねた家族が12歳の時に市川市の養護施設に移した。ここで山下は貼り絵(ちぎり絵)と出合い、眠っていた画才を一気に開花させた。

 

 

水を得た魚のように初期の虫や花から学園生活、外の様子などにテーマが広がった。山下の作品を中心にした養護施設の子どもたちの作品が早稲田大学や東京・銀座の画廊で紹介され、大きな反響を呼んだ。

 

写真:幼少期は友達だったという虫の作品が多かった

 

 

 

1940(昭和15)年の18歳の時、養護施設の生活に飽き、翌年の徴兵検査の恐れもあって、風呂敷包み一つ持って「脱走」する。これを機に松戸の魚屋、柏のそば屋、弥生軒などに住み込んでは旅に出る放浪生活が始まった。千葉県を起点に暑い夏場は北上、寒い冬は南下する旅で、1954(昭和29)年に鹿児島で見つかり、家族が連れ戻すまで続いた。

 

 

放浪は「裸の大将」という東宝映画で上映されたり、連続テレビドラマで放映されたりした。そこで描かれた山下は坊主頭にランニングシャツ、短パン姿でリュックに傘を入れ、線路を歩いて移動。旅先でスケッチし、作品を描く姿だった。しかし、実際は全く違うようだ。

 

 

写真:放浪生活で使われたリュックや腕時計などの生活用品

 

 

 

 

 

 

 

 

山下と一緒に暮らした甥の山下浩さんは記念講演「家族が語る山下清」で「ランニングに短パンはテレビなどが作り上げた姿。実際は浴衣や着物姿で、旅先では作品を描くことはなかった」と打ち明けた。山下は記憶力が抜群で、作品は自宅や施設に帰った後、旅先で観て感じた「心の情景」を貼り絵やペン画などにしていたのだという。

 

 

写真:記念講演会の講師を務めた山下画伯の甥、山下浩さん。いろんなエピソードを披露した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浩さんによると、山下は映画やテレビで描かれる自分の姿を嫌がっていた。でも、放浪したのも線路を歩いたのも事実で、暑がりで家にいるときは坊主頭でランニングを着ていた。本人は「半分本当ならいいかな」と思っていたという、家族ならではの内輪話もあった。

 

写真:山下画伯の横顔が紹介された記念講演会「家族が語る山下清」の会場

 

 

山下展は、2002(平成14)年のアビスパ開館以来初めてという2階に五つある全学習室、オープンスペース、ミニホールの展示スペース全てが使われた。幼少期の貼り絵との出合いから放浪時代、画家として全国、ヨーロッパ取材……。ライフワークとして取り組んだ「東海道五十三次」の創作中に脳出血で倒れ、49歳の若さで亡くなるまでの軌跡を140点の作品・資料でたどっている。

 

写真:写真の山下画伯が出迎える第1展示場(左)、地元ゆかりの画家の作品を見入る入場者(右)

 

 

中には弥生軒に贈られたり、駅弁の包み紙のデザインになったりした作品など、我孫子に残る14点が「我孫子ブース」として館内三カ所で特別公開されている。放浪中に背負ったリュックや腕時計などの遺品も展示されて興味深い。

 

写真:ほかの展示会場ではみられない地元で保管されている作品の「我孫子ブース」

 

 

貼り絵は色紙や古切手、新聞紙などを細かくちぎったり、こよりにしたりで変化をつけている。浩さんの「何でこんな大変なことをするのか」との問いに、山下は「これが当たり前。どこかはしょる方が難しい」と答えたという。

 

 

複数回、展示会場に足を運んで作品を見た。ほんわりした感じの作風から山下の温かい人柄を感じた。「会ってみたかったなー」との筆者の独り言に妻が「わたし、会った」と反応した。青森・八戸出身の妻が子どもの頃、地元デパートであったサイン会に絵はがきを買って並んだそうだ。「ただ黙々とサインしていた。それしか覚えていない」

 

 

山下は、なぜ人が自分のサインを欲しがるのか不思議だったという。むしろ簡単な虫や花の絵を描いてあげたほうが喜ぶのでは、と思っていたらしい。サインもデザインっぽい崩し字ではなく、ずばり「山下清」そのもの。山下の人なりの一端を現しているようでもある。

 

 

長岡の花火」(貼り絵)©Kiyoshi Yamashita 2020

 

 

「ロンドンのタワーブリッジ」(貼り絵)©Kiyoshi Yamashita 2020

 

 

「手賀沼公園」(ペン画)©Kiyoshi Yamashita 2020

 

 

(文・写真 Tokikazu)

多彩な顔ぶれが生誕半世紀祝う
我孫子市制50周年記念式典

――プロゴルファー、ジャパンラグビートップリーグチェアマン、日本サッカー協会会長、そして「あびこ市民の歌」のシンガー・ソングライター。12月23日、JR我孫子駅南口の「けやきプラザ」で、我孫子市市制施行50周年記念式典があった。多彩な顔ぶれが我孫子市誕生半世紀を祝った。

手賀沼と民藝の心展

写真上:開式前に上映された50年の歩みをつづる「我孫子市はるかな旅」

 

 

同市は1970(昭和45)年7月1日、県内22番目の市として誕生。当時の人口5万人。都心から30キロ圏にあり、手賀沼と利根川の水と緑あふれる住宅都市に発展し、人口13万2千人になった。

 

 

会場では開会に先立ち、50年の歩みを描いた「我孫子市はるかな旅」と題する映像が上映された。手賀沼を愛で別荘を建てた嘉納治五郎、古き街並み、昭和の風景などが映し出された。

 

 

我孫子市市長星野順一郎市長は式辞で「子どもからお年寄りまで『われ(我)まご(孫)こ(子)』の多世代が住みやすい魅力ある我孫子を引き継いでいきたい」と述べた。

 

 

写真:星野順一郎市長の式辞。「先人の歴史、文化を継承し、物語が生まれる町を引き継ぐ」と述べた

 

 

 

 

 

 

 

 

日本を代表する地元プロゴルファー青木功さん、市内の川村学園女子大学特任教授で、児童文学のノーベル賞といわれる国際アンデルセン賞作家賞を受けた上橋菜穂子さんに名誉市民の称号が贈られた。

 

 

写真上:名誉市民の称号が贈られたプロゴルファーの青木功さん

 

 

青木さんは「近所にゴルフ場があり、ゴルフを通じて育ててもらった。これからも長生きして市民の皆さんとゴルフをしながら我孫子を守っていきたい」とあいさつした。

 

 

我孫子のプロゴルファー海老原清治さん、同市が本拠のNECラグビー部元監督でジャパンラグビートップリーグチェアマンの太田治さん、かつて9年間居住した日本サッカー協会会長の田嶋幸三さんに市民文化スポーツ栄誉賞が贈呈された。

 

 

 

写真:プロゴルファーの海老原清治さん(左)、ジャパンラグビートップリーグチェアマンの太田治さん(中央)、日本サッカー協会会長の田嶋幸三さん(右)

 

 

 

ラジオ出演で出席出来なかった「ふるさと大使」のお笑い芸人・ナイツの塙宣之さんはビデオメッセージを寄せた。「我孫子で生まれ育った。万緑に包まれ素晴らしい環境。これからもラジオ、テレビで我孫子をアピールします」

 

塙さん

 

写真上:「万緑で魅力あふれる我孫子」とビデオメッセージを送ってきた「ふるさと大使」の塙宣之さん

 

 

市民グループからも「鳥がいっぱいの我孫子が大好き」「水に囲まれた我孫子が大好き」という「我孫子大好きメッセージ」が舞台のスクリーンに次々と映し出された。

 

 

小椋佳さんフィナーレは40年前に作曲し、歌った小椋佳さんが50周年のために編曲し、歌い直した「あびこ市民の歌」。小椋さんは今更、喜寿を迎える自分の声でなくてもと思ったが、初LPから50年となり、我孫子との縁を感じて引き受けたという。

 

 

写真:にこやかに登壇する小椋佳さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

共演する同市立白山中学校合唱部員20人に迎えられ、にこやかに舞台に登場した小椋さん。「紅いつつじの花の波 あびこの丘の春名残……」で始まる歌を、移り変わる手賀沼の写真を背にして、変わらないムードたっぷりの声で中学生と歌い上げた。

 

 

 

写真上:フィナーレで「あびこ市民の歌」を歌う小椋佳さんと我孫子市立白山中学校合唱部員

 

 

メニューコロナ禍にあって、招待者などかなり規模を縮小した代わりに、ユーチューブでライブ配信された。役所の記念式典といえば、来賓らの長々とした挨拶が続くなど格式ばったものになりがちだ。だが、我孫子のそれは違った。

 

 

写真:カメラの放列。ユーチューブでライブ配信された

 

 

 

出席者の顔ぶれが華やかで、ビデオメッセージなどの演出もさることながら、小椋さんと中学生の世代を超えたコラボが心温まる感動を与えた。

 

 

(文・写真 Tokikazu)