我孫子・手賀沼を愛した嘉納治五郎
――NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」で、役所広司さん演じる嘉納治五郎(1860~1938)は、戦前の東京五輪誘致に持てる情熱をつぎ込み、志半ばで病に倒れる姿が印象的だった。講道館柔道の創始者であり「日本スポーツの父」と呼ばれる生涯が描かれている。■写真:展示品を説明する学芸員の髙木大祐さん
英語が堪能で国際オリンピック委員会(IOC)委員となった嘉納は、1936(昭和11)年7月のIOCベルリン総会で、4年後の第12回五輪を東京で開くことを決定づけた人物だ。実は、嘉納は我孫子市とは浅からぬ縁がある。
同市の杉村楚人冠記念館が「嘉納治五郎と手賀沼・幻の東京オリンピックをめぐって」と題した企画展で直筆の手紙などを展示し、そのゆかりを紹介した。
■写真:大正時代の雰囲気を醸す記念館内の和室
嘉納は1911(明治44)年、手賀沼を見下ろす天神山と呼ばれる高台に別荘を建てた。現在は緑地として保存されているが、隣接地に甥で思想家の柳宗悦も移住し、小説家の志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派と呼ばれる文人らが集まるきっかけになった。
別荘から見た手賀沼の写真に「我孫子天神山より安美湖(あびこ)の眺望」との説明を付けた絵葉書を、近所に別荘を構えていたジャーナリストの杉村や西洋古代史学者の村川堅固らと作るほど、手賀沼にぞっこんだった。
■写真:嘉納治五郎が「安美湖」(あびこ)と称して愛でた手賀沼
ただ別荘族然としているのではなく、我孫子町長、校長、区長、消防署長ら「長」のつく町民と座談会をつくり、町の発展についてビールを飲みながら話し合った。杉村の随筆集「続湖畔吟」に「村の会」として記され、嘉納が出席の返事を書いた葉書も残っている。
■写真:住民との「座談会」に出席連絡する嘉納治五郎のはがき(1931〈昭和6〉年1月)
嘉納や杉村らがイメージした我孫子の発展は、手賀沼の景観や名産品を生かし東京から人を呼ぶことだった。しかし、当時の国、農商務省は手賀沼干拓事業を構想し、嘉納らは「発展の障害」として反対運動に乗り出す。村川と電話で情報交換し、嘉納の別荘で対策の話し合いを計画する様子が、杉村宛の1926(大正15)年11月2日付手紙でわかる。
■写真:杉村楚人冠に宛て、国の手賀沼干拓計画への対策会議を連絡する嘉納治五郎の手紙(1926〈大正15〉年11月)
東京五輪が決まると、我孫子町は嘉納に祝電を打ち、座談会の折、漕艇競技などの手賀沼誘致を陳情。「個人として極力協力する」と語ったという伝聞記事が1936(昭和11)年8月2日付の新聞に載った。事実、手賀沼を愛でる嘉納は、我孫子町とともに東京五輪の漕艇競技会場を手賀沼にしようと動いたようだ。
我孫子尋常小学校(現・我孫子市立我孫子第一小学校)沿革誌に同年12月、嘉納が「第12回オリンピック大会招致の由来と国民の覚悟」のテーマで児童、父母別々の講演会を開いた記録が残る。同記念館学芸員の髙木大祐さんは「講演会後、嘉納は大会組織委員会に出席しています。五輪への情熱もさることながら、我孫子のために時間をとっての講演会。我孫子への思い入れの強さがわかる」と解説した。
漕艇競技は最終的に埼玉県戸田村に決まる数日前、嘉納が町役場に電話をいれる。町長とともに誘致運動に協力してきた東京帝大漕艇部出身で漕艇競技界に人脈を持つ布佐町相島新田開拓地主の井上家跡継ぎ、井上武らに上京を求めた。その内容を記した1937(昭和12)年5月13日付の手紙が井上家に残っていた。
■写真:旧井上家で見つかった初公開資料。五輪会場問題で嘉納治五郎から電話を受け、町長とともに上京を要請する我孫子市助役の手紙(1937〈昭和12〉年5月)
手紙は初公開というが、髙木学芸員は「嘉納が漕艇の手賀沼誘致に協力するという新聞記事は伝聞にすぎない。この手紙は実際に協力していたことを示す内容で、嘉納は最後まで世話を焼いていたことがわかる」という。
東京五輪が決まった翌年、日中戦争が勃発して戦時色が強まり、国内外で返上論が湧き上がる。それでも嘉納は「東京五輪はやる」として1938(昭和13)年3月のIOCカイロ総会で熱弁をふるい、東京開催を確認した。
当時の日本体育協会会長に宛てた同年4月4日付の手紙(国会図書館資料)で「会議は好都合に終了しましたが、将来いろいろな問題に行き着くことになり、今日から切り抜け方に苦慮しております」との心境を綴っている。
この1か月後、日本に戻る船上で風邪をこじらせて亡くなり、死後2か月で開催返上が政府決定された。
嘉納の東京五輪は幻に終わったが、来年の2020年には1964年に次ぐ2回目の東京五輪が開催される。奇しくも嘉納生誕160周年と重なり、我孫子市民グループ「我孫子の文化を守る会」が別荘跡地に銅像建立を計画している。
嘉納が愛してやまなかった今の我孫子、柏両市の手賀沼湖畔は、五輪聖火リレーのルートに選ばれ、来年7月4日に聖火が走る。偶然とは思えない、嘉納との縁を感じざるを得ない。
■写真上:嘉納治五郎(1860~1938)(ウィキペディアから)
杉村楚人冠記念館は杉村が1912(明治45)年に建てた別荘で、移住した24(大正13)年から亡くなる45(昭和20)年まで過ごした母屋、茶室など4棟で構成する我孫子市指定文化財。JR我孫子駅南口から徒歩約10分の住宅街の一角で、季節の花が咲く5200平方㍍の邸園とともに残り、当時の文人邸宅の面影をとどめている。
■写真:杉村楚人冠記念館の案内板、正門、邸園
■写真下:杉村楚人冠記念館邸園の季節の花と石灯篭、イガグリ
(文・写真 Tokikazu)