――手賀沼を擁する我孫子の街は、ちょっと歩くと何かの石碑があり、ちょっと歩くと何かの旧跡があり、日常的に歴史を感じさせられる。そのなかでも代表的なものが、大正時代にこの地へやってきた白樺派の文人達や、その周辺の人物たちにまつわるものだ。
柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチ、杉村楚人冠、村川堅固・村川堅太郎親子、そして嘉納治五郎ら、多くの著名人にゆかりの地が残されている。我孫子市は「大正・昭和の文化遺産」として市民とともに名所旧跡を保存し、今でも多くの人がこれらの場所を訪れる。
そのような旧跡に囲まれた中で、白塗りの壁と入口の彫刻が特徴的な一つの施設がある。白樺文学館だ。
白樺文学館はもともと日本オラクルの佐野力氏によって建てられ、今では我孫子市が管理している。この文学館はどのようにして設立され、今ではどのような役割を果たしていこうとしているのか。また、白樺派や嘉納治五郎にとっての我孫子時代はどんな様子だったのか。白樺文学館で学芸員を務める稲村隆さんにうかがった。*敬称は省略させていただきます 。
メセナとしての白樺文学館
- そもそも、この白樺文学館を開館されたのは日本オラクルの方だと聞きましたが、どのような経緯で、何を目的として設立されたのでしょうか?
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稲村 白樺文学館は、佐野力氏によって、この白樺派文人たちの活動を広く次代に伝えるため、いわゆる「メセナ」として建設され、基本構想から資料集めなど、中心的に関わっていた館長の武田康弘氏中心に2001年一般公開が始まりました。
当初は、「志賀直哉文学館」とする計画だったようですが、志賀直哉のご遺族から、志賀直哉の遺言で名前を冠した記念館等は作らないでほしいという旨の連絡があり、それでは白樺派である柳宗悦、武者小路実篤もゆかりの地であることから、「白樺文学館」という名称になったようです。
私立時代には、白樺派文学や民藝活動を展示等で紹介するだけでなく、阿川弘之氏をはじめとする著名作家、白樺派文学及び民藝運動の研究家のほか、地元郷土史研究家・陶芸家・音楽家など多分野にわたる著名講師を招き、月例の講演会および研修会を延べ80数回開催しました。
2009年からは「我孫子市白樺文学館」として我孫子市に運営が移管され現在に至ります。■写真上:白い建物が目をひく白樺文学館の外観
- 現在の白樺文学館はどんなことを目指しているんでしょうか?
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稲村 白樺派にとって我孫子はどんな場所だったのか、志賀直哉たちにとって我孫子はどんな場所だったのか、ということが私立時代はメインであったように思うのです。つまりは「白樺派」が主語になって彼らの業績を評価、顕彰してきたわけです。そこからもう一歩踏み込んで考えた時に「我孫子にとって白樺派はどういう存在だったのか」ということを主軸にして「我孫子にとっての白樺派の魅力」を掘り下げるようにしています。白樺派が我孫子にいたことによって、創り出された文化空間「我孫子・白樺派」と名付けてさまざまな文化人を取り上げています。具体的には、志賀直哉邸に住んだ画家、歌人である原田京平、睦夫婦や、柳宗悦邸に住んだ陶芸家河村蜻山などを取り上げて展覧会、各種イベントを開催しています。
ただ弊館は白樺派のゆかりの地の一つであり、生誕の地や亡くなった地ではないことから、なかなか我孫子時代の資料が乏しいということもあります。ある意味では、展示の質で魅せていくというのには、難しい現状があります。しかしそれを逆手にとって、白樺派や民藝運動というものへの入口に立つ館として、現在はイベントに力を入れています。
白樺派や民藝運動に関する作品の朗読会、柳兼子愛用のピアノを利用した館内のBGM演奏や、音楽会などを毎月開催しています。なかなかすぐに志賀直哉の小説を読んでみようと思えなくても、朗読で耳から入っていただけたり、ピアノの演奏に興味を持った方が、度々来館しているうちに、白樺派や民藝運動に興味を持っていくという姿をしばしば見かけます。
また運営には、市民スタッフの方々にご協力をいただいて開催しています。市民スタッフの皆さんはまさに白樺派に魅せられ、今日の「我孫子・白樺派」を支える人々と言えるのかもしれません。現在は我孫子市教育委員会の生涯学習部が所管する施設ですので、生涯学習、社会教育という観点から、市民の活躍の場、そして市民に愛される文学館であるように努力しています。
嘉納治五郎と白樺派
- NHKの大河ドラマ(2019年)で登場する講道館設立者・嘉納治五郎も、我孫子に移り住んだ著名人の一人ですね。柳宗悦を招いたのは嘉納治五郎だったという話ですが、なぜ我孫子に招こうと思ったのでしょうか?
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稲村 我孫子に柳宗悦を招いたというよりは、行きがかり上、柳宗悦がやってくるきっかけが嘉納治五郎だったといえるでしょう。
そもそも嘉納治五郎は柳宗悦にとって叔父にあたり、宗悦の母の弟でした。宗悦の母と姉が、それぞれ伴侶を亡くして未亡人になったときに、二人の住む場所として我孫子を提案したのです。しかし宗悦の姉は再び嫁いだため、いわば宗悦が別荘番のような形で移り住んできたのです。そして、その宗悦が、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチらを招くことになったわけです。いわば我孫子は彼らにとって絆を深めた地といえるでしょう。 - 白樺派は、なぜ我孫子という土地にやってきたのでしょうか?
■写真上:柳宗悦の妻・柳兼子(声楽家)が所蔵していたピアノの前で
- では彼らを招くきっかけになった嘉納治五郎はなぜ我孫子を選び、どんな事をしていたのでしょう?
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稲村 嘉納治五郎は別荘を求めて、我孫子にやってきます。アクセスの良さや風光明媚であったことなどが挙げられますが、我孫子でなければならなかったという理由は判明していません。我孫子で行ったことについては、『嘉納治五郎人脈マップ』(発行・一般財団法人嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター)にも書きましたが、1919年に嘉納後楽農園の経営を始めて、野菜にラベルをつけてブランド化を図ったんです。現代でも、生産者の名前と顔が書いてある野菜を売り出してブランド化していますよね。ああいうものの元祖にあたると思います。また、町長や郵便局長を集めて会合を開き、地域振興を図ろうとしていました。村川堅固も、熊本第五高等中学校在籍時代に校長が嘉納治五郎だったので知人関係にありました。
嘉納治五郎と同じく別荘を構えた朝日新聞のジャーナリスト杉村楚人冠によれば「嘉納さんが我孫子に見えられた時は、講道館の総大将でもなく、大教育家でもなく、貴族院議員でもなく、実にものやさしい一個の好々爺であった」と記しています。嘉納が別荘を構えたのが1911年ですから、大日本体育協会会長就任やIOC委員に就任した頃ですね。
それから、我孫子の風景の保存にも力を入れていて「手賀沼保勝会」を作りました。保勝の「勝」は「景勝地」「名勝地」などに使われる意味ですね。1920年代は新田開発のための手賀沼干拓の話が持ち上がってきました。しかし、ちょうどその頃、旅行ブーム・景勝地ブームが起きていて、都内から日帰りで行ける風光明媚な土地の一つに我孫子がありました。そして我孫子に住み始めた人々にとって、手賀沼の景観があることは非常に大切です。だから手賀沼の魅力を残すために尽力したんですね。
村川堅固や嘉納治五郎というのは、自分の別荘地である我孫子の振興に努めた篤志家のようなものです。幕末・明治生まれの人たちというのは、社会に自分の力を還元していこうという意識が強くて、芸術や文化のために投資するという動きが盛んだったと思います。あるいは白樺文学館を建てた佐野力さんにも、そういった意識があったのかもしれません。
稲村 柳、志賀、武者小路ともに我孫子にどうしても来たかったというわけではないと思いますが、来てみたらいいところだったという印象はそれぞれ持っていたものと思います。また当時東京へのアクセスが、鈍行で75分、特急だと40分だったそうです。現在常磐線快速で東京まで40分程度ですから、そういう意味ではアクセスも悪くなかったのでしょう。
柳宗悦は我孫子では、宗教哲学の研究をしていました。それらの研究が成熟する背景として、景観の美しさなどがとてもよかったということを『白樺』に「我孫子から」と題して掲載しています。
志賀直哉は、ちょうど父との仲が悪い時期だったりして小説が書けない時期でしたが、我孫子の地で「和解」を果たし、同名の小説を書き上げたり、「暗夜行路」の連載が始まったりと、「創作の地」といえるのかもしれません。
武者小路実篤は、我孫子の地で現在もつづく「新しき村」という考えを熟成させたりなど「思索の地」といえるでしょう。
白樺文学館で働くということ
- ところで稲村さんはまだお若いですが、なぜ白樺文学館で働かれるようになったのでしょうか?
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稲村 ちょうど大学院に入る前に募集があり、大学院はどこか博物館で働きながら研究できないかなと思っていたところだったので応募して、大学院入学と同時に働き始めました。もともと研究テーマとしていたのが、「大正期の朝日新聞と政党」を主軸に現在のメディアのあり方にどうつながるのかなどを考えていたので、『白樺』も大正時代の文化を代表するグループですし、我孫子には朝日新聞のジャーナリスト杉村楚人冠の記念館もありましたので、関連があるだろうという感じでした。入ったら学芸員の補助かなと思っていたら、学芸員は私一人……。前任者も引き継ぎでおりましたが、学部卒の学芸員資格とりたての新米には刺激的な毎日でした。
今では自分の研究より、白樺派、民藝運動、我孫子の郷土史、その関連で美術、文学史ばかりやって、今では自分の研究が何だったのかわからなくなります(笑)。しかし、大学院での学びとともに実践として文学館での展示やイベントを企画、運営することで、自らの研究の視野も広がり、非常に有意義な時間を過ごさせてもらっています。 - ここで働かれるようになって、各地の文学館なども回られるようになったんですか?
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稲村 もともとお茶碗やコップなどの器類、近代の建築や、寺社、庭園など明治末期から大正時代の文化、文物に興味があったので、白樺派、民藝運動という命題を得てもっとその魅力に迫りたいと思い、暇を見つけては全国各地を回っています。
志賀直哉ゆかりの地、京都、奈良、赤城山、尾道、城崎、熱海や、各地の民藝館、文学館など、歳の割には回っているのかもしれません。それから不思議な縁としては、学芸員の授業を担当してくれた先生が、日本民藝館の先生だったんです。その頃は、柳宗悦が白樺派ということは知りませんでした(笑)。働くようになってから日本民藝館にもよく行くようになり、我孫子での展覧会にも大変お世話になり、また民藝夏期学校での講演などもさせてもらいました。やはり我孫子は「縁、絆」の地なのだとつくづく思います。 - 白樺文学館に勤めていて、この土地はどう思いますか?
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稲村 僕は我孫子に住んでいるわけではないんですが、まさに「郊外」という表現がぴったりの土地ですね。都市と田舎の中間。通いやすいですし、緑ゆたかで気持ちがいいです。
- では最後に、これから先、白樺文学館でどのようなことをしていきたいかお聞かせいただけますか?
- 稲村 若い世代にも魅力的に見えるように発信してきたいと思いますね。去年の来館者は5000人以上いたんですが、『文豪とアルケミスト』という流行の作品をきっかけに来館する人が非常に多くて、五月の連休中に我孫子駅からツアーで来た人たちもいたくらいです。連休中は1週間で500人くらい来ましたね。
- そのような作品をきっかけに来館されるのは、どういう方が多いですか?
- 稲村 20代~30代の女性が非常に多いです。なかにはわざわざ古書店を巡り、弊館にない白樺派や民藝運動関連の彼らの著作を寄贈してくれる人も出てきました。館のサポーターになってくれるという人もいます。また、2012年(平成24年)で大正100年にあたり、明治・大正生まれの方のお孫さん世代が、70代~80代くらいになっていますよね。ひ孫になると、もう祖父母は疎遠になってしまうということで、寄贈の問い合わせも多くなっています。
- 貴重なお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。これからも頑張って下さい。
- 稲村 ありがとうございました。
(2018年11月16日 我孫子市「白樺文学館」にて)