下手でもいい、感情を込めて描くこと

洋画家・香島ひで子さん(柏市)

 

取材・文 津島めぐみ

    香島ひで子

●プロフィール

1948年生まれ、千葉県柏市出身。新槐樹社委員。1967年千葉県立東葛飾高等学校卒。洋画家・早川義孝に師事し、50年以上にわたって油彩画を描き続ける。1978年、第22回新槐樹社展に初出品、優賞受賞。その後も出品を続け、受賞多数。2004年、第48回新槐樹社展にて《暮れるとき》内閣総理大臣賞受賞。2017年、長らく美術会が存在しなかった柏市で「柏市美術会」の立ち上げに携わり、2018年、第1回柏市美術会展を開催する。

 

 

香島ひで子

――香島ひで子さんは、柏で長年父の代から続くハンコ屋さんを営んでいる。そのかたわら50年以上絵を描き続け、最近になって「柏市美術会」も立ち上げた。絵の先生は、柏市在住だった画家・早川義孝氏(1936-2012)。近年「俯瞰で描いてみたら」という師のアドバイスによって、得も言われぬ構図で圧倒的な出で立ちとなっている。 油絵の具のにおいが立ちこめるアトリエの中、小柄な体で大きなカンバスに向かう香島さんの姿は、愛想のいいハンコ屋のおかみさんからは一転、まるで何かもっと巨大なものと戦っているかのようにも見える。今回は香島さんに直接お話をうかがい、絵画活動や「柏市美術会」立ち上げの経緯のほか、師である早川義孝氏の人物像についてもたずねた。

*敬称は省略させていただきます 。

 

 

 

絵ができるまで

写真で見せて頂いた絵はかなり大きいですが、普段はどのくらいの大きさの絵を描かれるんですか?

香島 写真の絵もそうですけど、毎年2月に六本木の新国立美術館に出品する展覧会では100号カンバスを使っているんですけどね、いつもは10号カンバスをメインで描いていて勉強しています。その中から良いなと思ったのを選んで、100号カンバスに描いているわけです。

先に小さい絵を描いてから、大きなカンバスにするんですね。年間に何枚くらい描くんですか?

香島 小さいのも含めたら、年に30枚~40枚くらいでしょうか。

これだけ大きいと、保管場所に困りそうですが、どうされているんですか?

香島 ごくごくたまに「買いたい」って言ってくれる人もいますけれど、そもそも売るために描いているわけではないから、展覧会が終わると100号の物はカンバスを剥がして木枠だけ残して捨てちゃうことが多いですね。それで、また新しいカンバスを張って、新しい絵を描くんです。

香島さんとカンバス

写真上:制作中の絵の前に立つ香島さん

木枠だけ使い回すんですね。捨ててしまうのは勿体ない気もしますが、大きな絵を何枚も置くのは大変ですからね……。ところで、そもそも香島さんが絵を描くようになったきっかけは何だったんでしょうか?

香島 高校卒業の頃、早川義孝先生(注1)の講座に通い始めたときです。私は早川先生と出会わなかったら絵なんか描いていないし、普通のおばちゃんだったと思います。最初は早川先生の絵じゃなくて人柄に惹かれてね、講座の自己紹介も内容もとても気に入って、それで習い始めたんです。教わり始めて1年くらいで、早川先生が個展をやるという話を聞いて「個展って何だ?」と思って行ってみた。今から50年前だから、柏に住んでいて銀座で個展をやるなんて、すごく遠いことに思えたんです。で、実際に個展を見に行ってみたら「こんな素敵な絵を描く人がいるのか」と思って、そのとき人生で初めて、絵で感動したんですよ。

油絵を選んだきっかけは何だったのでしょうか?

香島 初めて早川先生のところで受けた講座が「油絵の手ほどき」だったんです。スケッチのために水彩もやりますけど、自分には油絵がやっぱり魅力的で、油を重ねていく工程がいいんですよね。

絵が完成するまでにどれくらいの時間をかけられますか?

香島 100号はだいたい3~4ヶ月くらい、10号ですと1~2ヶ月ですね。週に2~3度、2時間くらい筆を執って、5~6枚は並行して描きます。描いているときは全く疲れないんだけれど、筆を執るのに向けて気持を集中させるのが大変で。今は生活が安定していて、神経を尖らせることがなくなってきましたが、若い頃の方が心配ごとが多くて、逆に集中して描けましたね。生活に一杯一杯のなかでも、絵を描くためのお金や時間だけは別にしてあったから、描いていることが救ってくれたと思います。子育てよりも絵を優先する事もあってね。母がいてくれたから、面倒を見てもらって描いていました。描いているときは作品のことだけしか考えなかったから、生活の心配も忘れていられましたね。絵を描いていなかったらつらい事に潰されてましたよ。絵を描いていたから、乗り越えられたんだと思います。今の方が技術的には若い頃より上手になりましたけど、若い頃のほうが下手くそだったけれど一生懸命描いていたと思いますね。

 

日本の漁村からフランスの街並みへ

絵の題材はどのようなものを選んでいるのでしょうか?

香島  新槐樹社で内閣総理大臣賞をいただいた《暮れるとき》(2004・柏市所蔵)は霞ヶ浦の納屋をモチーフに描いてますけど、この頃までは日本の古い漁村を中心に描いてましたね。外房のほうの古い漁村とか。でもこの絵以降は、ヨーロッパの風景が中心になりました。1989年に、早川義孝先生の個展がパリであるっていうので、生まれて初めてパリに行って個展を見て、余った時間、海外で絵を描いたんです。何世紀も前の街が残っているという事に感動して、最初のときは絵描きの仲間とツアーで行きましたけど、私、人と旅行に行くのってあんまり好きじゃなくて。だから次は一人で行きたいなーと思って、それから4~5回くらいフランスに行ったでしょうか。外国にいても怖さとか不安はなくてね、前世はここにいたんじゃないかっていう感じがしました。

フランスではどの辺りによく行かれたんですか?

香島  泊まるのはほとんどパリです。高校のときの同級生でアテネ・フランセで勉強した友達が色々と世話をしてくれて、さらにその友達がパリに住んでいたから、彼が色々連れて行ってくれたんです。彼は私たちより少し若くて、日本が好きでよく来ていたけど、日本語はまるっきり話せなくて。友達がいるときは、その人が通訳してくれましたけど。彼が休みを取って地方に連れて行ってくれて、そこで自由行動にして、私は一人で絵を描かせて貰えるんです。最初の1~2回はほとんどパリ市内の地下鉄で回れる範囲にしか行かなくて、そのあとはフランスの田舎の古い家とか、小さい田舎町とかを描くようになりました。

今のような作風になったのは、いつごろからなんでしょうか?

香島  1990年代ごろから写実で描いていたんですけど、2005年~2006年ごろから「俯瞰で描いてごらん」と早川先生に教えられたんです。でも俯瞰の風景って、実際には見られないでしょう。だから、自分の頭でくみ立てるようにした方がいいという意味だと解釈して、そういう作風にしていったんです。「自分の中の街」を描いているという感じで。でも段々ネタ切れしてきちゃって、マンネリ化しちゃっているなーと感じて、今年(2018年)、イタリアに行ってみることにしました。

イタリア旅行の様子は旅行記『七十才イタリア一人旅・カピちゃんの大冒険』でも書いておられましたね。実際にイタリアに行かれてみて、絵のほうはいかがですか?

香島  一回行っただけではまだ自分の世界は作れないと思いましたね。今までのパターンでは描きたくないけれど、さてどうしようか、というところです。描き始めてはいますけど。

写真上:イタリア旅行後に描きはじめた作品のひとつ

絵を描く時には、どんなことを表現したいと思っていますか?

香島  建物を描いていても、建物だけではなくて、その中に人がいるんだと感じさせたいと思っています。人が作ってきた時間を感じさせたいと。最終的に表現するときには暖かい色彩を使って、画面に人を描かずに、人のぬくもりや人の歴史を表現しています。あと、廃墟は描かないし、今の都心なんかも描きたいとは思わないですね。難しい。アフリカや東南アジアは自分の絵の体温に向かないと思いますね。描きたいと思う温度や湿度があるんです。ドイツやイギリスは硬い感じだけれど、フランス・イタリア・スペインあたりはちょうどいい。でもフランスもニースまで行くと暖かすぎるし、絵画的すぎるから。モンマルトルの丘までの道とかね。たとえばシャンゼリゼ通りそのものではなくて、2~3本入った道のほうがいい。 あと、海外で絵を描いていると放っといてくれるのがいいですね。フランスの人なんかは絵を描いていても詮索しないんですよ。イタリアでも話しかけられるっていうことはなかった。でも日本だと漁村なんかを描いていてもあれこれ話しかけられちゃう。話しかけられたくないんですよ。

「売り絵を描いてはいけない」

絵を描くときに気をつけていることはどんなことなんでしょうか?

香島  自分の体質として、たとえば同じ壁でもコンクリートよりはレンガや漆喰の壁がいいと思ったり、硬質なものが風化された所に魅力を感じたりするんです。それを絵のモチーフにする場合には、絵はがきになるような風光明媚な「売り絵」にはしないように、というのを気をつけていますね。早川先生には「自分の中から生まれてきたものを描きなさい」と言われたんです。売り絵は自分の発想ではなくて、多くの人の好みに合わせてしまうんですね。「でも、君たちは絵で生計を立てるわけではなくて、純粋に絵が描きたいので描いているんだろう」と。 だから、感情ではなくて知識だけで描いてしまったり、人の目を気にした絵を描いてしまったときなんかは、激怒されましたね。

実際に怒られたことはありますか?

香島  あります。私が30代の頃、所属していた「えのぐの会」というサークルがありまして、だいたい60人~70人の集まりなんですけどね、あるとき、ちょうどあまり絵を描いていなかった頃だったから、適当に描いたものを出したら、先生から展覧会で「君のだけは飾らない」って言われたんです。もう経験を積んでいて腕はあったから、描けたことは描けたんですが、先生が見るとわかったんですね。それで、本当に悔しくて、その夜のうちに描き直して、ちゃんと飾って貰いました。 先生からはね、絵は「下手でもいい」ってよく言われたんです。勉強さえすれば、誰だって美大出くらいの絵は描ける。でも下手でいいんだって。誰もが褒める絵ではない。だから早川先生が亡くなっても、決してそんな絵は描いちゃいけない、と思いますね。でも感情をもって描くということは、自分のアンテナが鈍っているとできないんですよね。

早川先生は、香島さんにとって、とても特別な存在だったんですね。これまでのお話の他に、先生について特に心に残っている事は何ですか?

香島  早川先生は本当に多くの人を教えていたけれど、私には多くの言葉での指導は少なかった。でも目をみただけで評価はわかりました。言葉は少なかったです。
今にして思えば早川先生は私に、組織の中でどうあるべきかも教えてくれました。たとえば、先生について誰かが陰口を言っていたときに、「先生、あの人あんなこと言ってましたよ」なんて先生に告げ口すると、「君がその人に対して聞いていただけで何も言わなかったのなら君もその陰口を言った人と同じだ」って言われたりね。少しなりとも人の上に立つようになったら、責任をとらなきゃいけない。責任をとるということは、まず謝ること。言い訳しちゃいけない、と。「理由は君の問題なんだから、まず謝るべきだろう」とね。若い時なんて人に謝るのは辛くてなかなかできなかったけど、それを教えられたら、謝るのが辛くなくなりました。だから絵の指導者としての先生以上に、人としての生き方を教えて下さいましたね。先生に親以上に教えられたと思います。

絵をやめようと思ったことはないんでしょうか?

香島  三度ほど辞めようと思ったことがありますね。一度は、半年くらい全く口を利いてもらえなかったんです。だから、もう辞めたいと思って、辞めるための理由を考えていたんです。でも、サラリーマンの奥さんだったら転勤なんかがあって辞められますし、うちはハンコ屋だから、そういう辞める理由も作れなかった。身体も健康だったから病気を理由にはできなかった。それで結局、続けたんです。

怒られた原因というのは何だったんでしょう?

香島  よく自分ではわからないんですが、20代の頃でした。何か小利口な言い方が鼻についたんでしょうかね。生意気さとか、鼻持ちならないことを何か言ったのが悪かったんだと思います。

2004年に内閣総理大臣賞を受賞したときは、どんな気持ちでしたか?

香島  実は《暮れるとき》を描いたときは長いスランプで、展覧会の前の勉強会に持って行っても全然形ができなかったんです。最後の勉強会のときもうまくいかなくて、絵がぐしゃぐしゃだったんですよ。それで、勉強会が終わってから2~3日後に早川先生に「どうした、絵は?」と言われて「だめです」と答えたら「見てやろうか?」と言われたんです。でも、先生に見てもらうのはみんなと一緒にというのがルールだから、ここでもし先生に見てもらったら一人だけずるをすることになるし、ダメな絵を描いた自分をかくす事は人としていけないんじゃないかと思ったのと、早川先生もここで私をためしてると思ったので、「何とか一人でやってみます」と答えたのです。その頃には私は会の審査員も務めていたんですが、審査員の絵はどんな駄目な絵でも必ず展覧会で飾って貰えるんです。だから、とにかくぐしゃぐしゃのカンバスに描いて、なんとか形にして持って行ったんです。とりあえず飾ってもらえればいいと思って。でももしかしたら早川先生は「これは飾らない」と昔と同じ様に言われるかもしれないと思っていました。そんな思いで私も人の作品を審査しておりました。私の会では、内閣総理大臣賞と文部科学大臣賞に関しては一般審査員は立ち会えません。会のトップ3名が決定することになっており、早川先生はその最高責任者です。一般の審査員は席を外して、上層の人だけで審査して貰ったんですが、その審査が終わると「内閣総理大臣賞」として私の名前が発表されたんです。早川先生は「この絵は直前までぐしゃぐしゃだったけれど、悪くはないから」と仰っていました。私は受賞のコメントを言わなきゃいけなかったので、率直に「今回は飾って貰えるだけでも有難いと思っていたのに、嬉しいけれど、びっくりしています」と言いました。そのときに、自分の絵に対する自分の評価というのは分からないなあと思いました。それから、先生に手を入れてもらう事なく自分で仕上げたことが良かったんだなと。 実は団体に所属している場合って、一般的に指導者が生徒の絵に手を入れることが多いんです。でも、早川先生は初心者以外の絵には決して手を入れなかったんです。描くその人の個人の世界を大切にしていたんですね。

香島さん自身が、絵を描く上で一番大事だと思うことは何ですか?

香島  上手に描くことではなくて、心を入れて描くことが大事だと思っています。どんな創作の世界でも、作家さんの魂が作品を決めるものですから。自然体でいれば、自分がそのまま出るものです。若い時は自分を大きく見せようとして抵抗してもいいけれど、年がいったら頭の程度はそのまま出ちゃうものだから、馬鹿が抵抗しても仕方ないと思っていますね(笑)。

写真上:アトリエのベランダに咲く、香島さん自慢の花たち

柏で美術の輪を広げる

香島さんは最近、「柏市美術会」を立ち上げられたとのことですが、その経緯はどのようなものだったんでしょう?

香島  柏には50年くらい前に「柏市美術会」があったんですが、40年ほど前に内部分裂でなくなってしまったんです。我孫子や流山や松戸には美術会があるのに、柏にはずっと作家さん同士のつながりがなかったので、長年「作らなきゃ」とは思っていたんです。ただ、薄々は当時の経緯も知っていたし、もともとの会員の方もいらしたので、遠慮してたんです。でも、今ではもうほとんど当時を知る方もいないので、いしど画材さんや東美さんにも協力して頂いて、2年くらいかけて作家さんを集めました。わかる限りの作家さんには声を掛けてみましたが、50代~80代の方が中心で、これから若い会員さんにも入って欲しいと思っています。いま、会員は24~25名くらいいます。

「柏市美術会」に所属するための資格には、どのようなものがあるのでしょうか?

香島  柏市内在住か、市との関わりを持っている人で、作家活動をしている人、としています。今のところは洋画のみで、日本画や工芸はありません。水彩、油彩、アクリルでも構いません。ある程度の質は保たなければいけませんから、経歴書と写真で検討して、作品で判断します。誰でも彼でも入れる会じゃなくて、いい作家さんで構成していきたいと思っています。展覧会では、ゆくゆくは子供たちや市民にも声を掛けて、公募形式を取りたいという夢もあります。柏市の行政にも関わって貰って、実現させたいですね。

香島さん自身は、絵を人に教えることはあるのでしょうか?

香島  教室みたいなものはしていませんが、個人的にアドバイスを求められればすることはありますね。早川先生の受け売りだけれど、楽しく描きたい人に対してだったらアドバイスします。

これから、柏で美術がより親しまれるようになっていくといいですね。これからも絵画制作・美術会の運営ともに頑張って下さい。本日はありがとうございました。

香島  ありがとうございました。

(2018年12月6日 柏市旭町「ハンコのフカサワ」にて)

注1 早川義孝:日本の画家。東京都出身、新槐樹社名誉会長。1954年、千葉県立東葛飾高等学校在学中に全日本学生油絵コンクールで文部大臣賞を受賞。翌1955年にも連続受賞する。1962年、新槐樹社展に出品して内閣総理大臣賞、文部大臣賞、栄誉賞受賞。国内外での個展多数。