手賀沼 川瀬巴水 作
匂やかにわきあがる、淡彩色の積乱雲。大気の色をたっぷりと映しこんで描かれるのは、
白樺派も愛した名勝・手賀沼の景だ。筆の主は川瀬巴水。明治16 年、現港区新橋に生まれ、
昭和32年、大田区上池台に没した「大正新版画」の旗手である。
かのスティーヴ・ジョブズも愛したという、川瀬巴水。価格だけでなく、ユニセフのグリーティングカードへの採用など、海外での評価は高い。それに比べると、巴水自身が旅して回った日本での知名度は、まだまだ低いままだ。
そんな巴水の魅力を伝えようと、日本全国のみならず、世界にまで踏み出した人物がいる。柏市に本店を構える画廊「ギャラリー・ヌーベル」の社長、鈴木昇(すずき・のぼる)氏だ。鈴木氏は国際新版画協会の会長も務め、川瀬巴水の養女・川瀬文子さんや、版元である渡邊木版画店とも深い繋がりをもつ、川瀬巴水を語るうえで今や欠かせない人物となっている。日本の人々に、海外の人々に、自らの信念を捧げて巴水の魅力を伝えつづける、鈴木社長。彼にとっての川瀬巴水の姿を、「東京都大田区馬込での講演」と「画廊での談話」の二部構成で探る。(画像提供:ギャラリーヌーベル) *敬称は省略させていただきます 。
川瀬巴水(1883〜1988)
幼い頃より絵を好み、家業の糸組物業が手を離れたのち、本格的に画業に専念。
25歳のとき、洋画を白馬会・岡田三郎助に、27歳のとき、日本画を鏑木清方に習う。
清方の門弟で兄弟子・伊東深水の版画連作《近江八景》を見て感激、新たに版画の道を見出す。
渡辺版画美術画舗の渡邊庄三郎に見出され《塩原おかね路》(1918)の連作で浮世絵師として世に出る。
当時すでに35歳と、きわめて遅咲きの画家だが、洋画・日本画の経験も生かされ、今も国内外で人気を博す。
代表作に『旅みやげ(第1集〜第3集)』『東京二十景』『日本風景画集(I〜II)』シリーズなど。
大正新版画とは
大正4年、浮世絵再興をめざし、渡邊庄三郎(1885〜1962)が立ち上げた美術形式の一種。
フリッツ・カペラリを絵師として興り、橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水らがリード。
江戸の木版画に対して摺り度数が多く、平均して30度以上にも及ぶため、色に深みと幅がある。
また、棟方志功らの「創作版画」とは違い「彫り」と「摺り」は、絵師とは別の職人が担当する。
鈴木 昇(すずき・のぼる)
画廊「ギャラリー・ヌーベル」(柏市) 社長。
国際新版画協会(I.S.A)会長(2015年1月〜)。
2013年から2015年にかけ、全国の美術館・博物館、商業施設にて、日本最大規模の川瀬巴水巡回展を実施。2016年「タカシマヤ」シンガポール店での展覧会も企画。川瀬文子(川瀬巴水の養女)や渡邊版画店など重要関係者との親交も深く、在野において川瀬巴水に最も精通する人物の一人。
――2015年6月20日(土)、東京都大田区の馬込特別出張所で、川瀬巴水にまつわる連続講座『今、巴水を知り、日本を知る(なぜ巴水か)』が始まった。初回の講師は「ギャラリー・
ヌーベル」廊主であり、国際新版画協会(ISA)会長でもある、鈴木昇氏。テーマは「今、巴水から学ぶこと(なぜ巴水か)」だ。
大正15年・43歳から、疎開期を除くと、終生、大田区に居を構えた川瀬巴水。地元に長く暮らした巴水については、区民の関心も高く、区民限定・定員80 名のところ、定員を大幅に超過、当日は約100名もの聴衆が訪れた。以下は、その講演録である。
■鈴木昇氏講演「今、巴水から学ぶこと(なぜ巴水か)」
講演日:2015年6月20日
出席者:約100名
(※本原稿は、講演の記録をもとに作成されました。ただし、構成の都合上、実際のお話とは、順序が異なっております。予め、ご了承くださいませ)
川瀬巴水と鈴木氏
- 川瀬一家の思いが篭るジャケット
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鈴木 ご紹介に与りました、鈴木です。土曜日の貴重な時間をいただいて、私の拙い話を聞いていただくということで、恐縮です。
さて、いま私が着ている服は、川瀬文子さん(巴水の養女)から頂いたものです。巴水が川瀬梅代さん(巴水の奥さん)に買ってあげた、戦前の大島紬を、ジャケットに仕立てなおしたものです。裏地には、文子さんの着物が使われています。つまり、この服は、巴水・梅代さん・文子さん、その3人の思いが詰まっているジャケットなんです。巴水の話をするときには、必ず、このジャケットを着ることにしています。じつは、リバーシブルのベストも作っており、こちらは巴水の紋付になっています。着物に興味がある方がいらしたら、ぜひ、触りにきてください。
鈴木氏と大田区
鈴木 なぜ、研究家などではなく、私のようなビジネス側の人間が、川瀬巴水について喋るのか、そこからお話ししようと思います。私は、もともと山口県の生まれです。その後、上神明小学校(現・品川区)に通っていた頃は、立会川のガラス工場で、月光仮面ごっこなどやって、よく泣いていたらしいです(笑)。
■写真:川瀬家の着物で作られたジャケットとベスト
昨日、その土地のあたりを、息子と一緒に自転車で走ってきました。昔、お世話になっていた家に行ったら、お家のおばさんがまだ生きていました。もう90 歳なのですが、昔はそのおばさんのお乳で育ててもらっていました。大田区にあった予備隊の基地のあたりもよく歩いていて、三本松の、この辺りも、よく遊びに来ていました。「こんなに近いところにいたんだなあ」という気持ちになりました。昭和24年から11年間を過ごしたわけですから、ふるさとに戻ってきたような気分でした。川瀬巴水と私は、ここ大田区で、つながりがあるんです。
しかし、私は、ここでこうして喋っていますが、巴水の専門家ではないんです。たとえば、巴水にゆかりの深い大田区のなかでも、大田区立博物館にいらっしゃる清水久男さんは、巴水研究の第一人者といっても過言ではない方で、私たちの国際新版画協会にも所属していただいています。そのほかにも、巴水を研究している人はたくさんいます。その中で言えば、私自身も素人です。しかし、私は「すごい素人」になりたいと思っています。知らないことはどんどん知っていこうと思っていますし、素人の目線を、忘れたくないと思っています。大田区のみなさんも、地元の人とはいっても、知らないことがあるのではないかと思います。ですから、これから一緒に勉強していきましょう。 - 「出会い」と「気づき」
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鈴木 レジュメの囲いの中に「巴水知り どなたに気づき われを知る」と書いてありますね。巴水というのは、自分のことを客観的によく知っていた人だと思います。自分がどういう人間かをわきまえ、そのなかで「できること」をやってきた。また「誰と出会い何に気づき、どう生きるか」というのは、私の生きる上での座右の銘のようなものです。それが、巴水の行き方にも通ずるものではないかと思うので、このように書きました。
私が、先般のような巡回展をやらせていただくことができた理由は「出会い」だと思います。大田区の方にも、地元ですから「是非、日本橋島屋での展覧会をPRしてください」とお願いしたんです。すると「役所が一企業を応援することはできない」と言われてしまった。けれど「巴水を推すことで大田区のPR になるんですよ」と推してみたら、役所にもチラシを置いてくださることになって、おかげで、大田区からも、多くの方に来ていただけたんです。
このあと、渡邊彰一郎さんのお話もありますし、学芸員の清水さんも地元にいらっしゃいます。私がせっかくこうして話すのですから、本やテレビと同じ話をしても、皆さんも、面白くないでしょう。だから、今日は、私の独説に近いものを話そうと思います。こういうことを話す人は、ほかにいないと思います。そして、それを聞いて「ああ、確かに、そんな可能性もあるかもしれない」と、興味を持ってもらいたいのです。逆に、私の独説ですから、反論があるという方がいらっしゃれば、ぜひ、おっしゃって頂きたいと思います。それもまた、いい「出会い」の一つになると思うのです。どうぞ、宜しくお願いします。
- 最後の浮世絵師・川瀬巴水
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鈴木 さて、今日の会場のなかに「川瀬巴水に実際に会ったことがある」という人はいらっしゃいますか?――巴水は昭和32年の11 月27日に亡くなっている人なので、もしかすると、実際に会ったことがある人も、この地域にはいらっしゃるのではないかと思っているんです。先日、震災で流された「五浦の六角堂(北茨城市)」を再建するために JRが主催した「川瀬巴水展」(水戸市)で、私の講義にいらした方の中に「茨城キリスト教大学に巴水が滞在していたとき、実は自分が彼の世話をしたんだ」という方がいらっしゃったんです。もし、お知り合いに、そういう方がいらっしゃれば、ぜひ教えて下さいね。
川瀬巴水は、子どもの頃から絵が好きで、弟子入りは遅くなりましたが、ずっと絵を描きたいと願い続けていました。それで、家業を離れてから、日本画の鏑木清方に弟子入りを願いましたが、初めは断られました。「歳をとりすぎている」ことと「これからは洋画の時代だから」ということで、まず洋画の岡田三郎助を紹介され、白馬会に入ったんです。 しかし、どうも洋画は自分には合わないということで、もう一度鏑木清方の門を叩いて、二度目でやっと鏑木清方に弟子入りした。この時代に、洋画と日本画と版画をすべてやった、という人は珍しいですね。伊東深水は若いときから腕を認められましたが、逆に、巴水ほど多くのジャンルを経験することはありませんでした。巴水は、その意味でも特異な人だと思います。
美人画で知られる鏑木清方に弟子入りした川瀬巴水ですが、伊東深水ほど美人画は得意ではありませんでした。院展にも、何度も落ち続けています。しかし、35歳のときに、深水の木版画連作「近江八景」と出会って、これなら自分でも出来るのではないかと思って、木版画を始めたんです。伊東深水は、日本では「日本画家」とみられることが多いですが、海外では「浮世絵師」として知られています。浮世絵師の年表をみると、菱川師宣から始まった浮世絵の歴史は、川瀬巴水と伊東深水で終焉を迎えます。あまり知られていませんが、川瀬巴水は最後の浮世絵師として生きた人なんです。 - 巴水の人柄
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鈴木 巴水の人柄のよく表れたエピソードがあります。巴水が馬込に越してきてまだ間もないころ、地元の人から「《馬込の月》に描かれている松が、汽車の煙で駄目になってしまうから、汽車の電気化について陳情するために、絵を貸して欲しい」と言われたそうなんです。昔は四本松だったのが、巴水が描いた頃には三本松になり、三本だった松が、陳情の頃にはもう二本松になってしまっていた。そのことを知って、巴水は迷わず、絵を貸してやったのだそうです。
巴水は、自分自身では書物を著さなかったし、自分で自分を飾るのがあまり好きではなかった人ですが、このエピソードは、巴水の素朴で正義漢な人柄を表しているといえるでしょう。また、文士劇に自分で進んで出ていたくらいで、茶目っ気のある人でもありました。 - 鈴木氏の見る「川瀬巴水」
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鈴木 レジュメに「日蓮」という言葉を書いてあります。私は、子どもの頃から、南無妙法蓮華経の声で起きて眠っていたこともあって、日蓮を大事に思っていますし、好きです。巴水が馬込という土地にこだわったのは、実は「池上本門寺があったから」というのも理由の一つなのではないか、とも思っています。「ここ(馬込)に帰ってくれば、帰るところがあって、そこに日蓮さんがいる」という意識があったのではないかと思います。
実は巴水がやっていることは、日蓮とよく似ているんです。法華経の200番だったと思いますが、私自身も筆で目につくところに書いてある言葉に、こんなものがあります。
「所有(わがもの)というもの なくとも われら こころたのしく住まんかな 光音とよぶ天人のごとく 喜悦(よろこび)を食物(かて)とするものとならんかな」
巴水は、全然、お金はなかったけれど、全国を旅し、欲得と関係なく絵を残した。まさに、巴水の生き方と一致するでしょう。 - 巴水と周辺の絵師たち
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鈴木 ところで、巴水の人間関係は、生涯ずっと一貫しています。鏑木清方に27歳のころ弟子入りして以来、15歳も歳下の兄弟子・伊東深水とも、すごく仲がよかった。また、戦前に朝鮮行きを勧めてくれた山川秋峰とは、非常に相性がよかったようですね。
それと、巴水自身は、自分の絵が「小林清親に似ている」と言われると喜んだのだそうです。よく「歌川広重に似ている」とされ「昭和の広重」と称されますが、広重に似ていると言われると、あまり、いい顔をしなかったのだそうです。いま海外では北斎・広重・巴水で「3H」として語られる巴水ですが、小林清親の存在が欠かせません。小林清親は、ちょうど大正4年、大正新版画の誕生と同時にこの世を去った絵師です。巴水自身、この小林清親に非常に影響を受けたと語っていますし、小林清親の《池上本門寺》などを見ると、やはり、影響があるような気がしますね。 - 「半雅堂」巴水
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鈴木 それと、茨城キリスト教大学の古い校舎のなかに残っていた川瀬巴水の描いた水彩画には「半雅堂」という落款が捺(お)されています。あまり多くは残っていないのですが、この落款は、巴水が自分で捺しているものです。これは「絵描きは、そんなに雅なものじゃないのだ(半・雅/はんが)」という、巴水の考え方を表す、一種の洒落ですね。
- 「初摺り」と「後摺り」
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鈴木 大正新版画には、現在、「初摺り」と「後摺り」があります。私自身、初摺りで60点ほど、後摺りで100点以上の作品を所蔵していますが、関東大震災と第二次世界大戦とで元の版木が燃えてしまっており、残されている版木は89点です。この、残された版木を使って摺られたものを「後摺り」といいます。いま、巴水の後摺りを作れるのは、 渡邊木版画店の渡辺英次さんだけです。新版画は、色(摺り)の数が多いので「1つの絵柄を100枚摺るのに、1ヶ月かかる」とおっしゃいます。版木や、紙、絵の具は同じ物を使用しているので、初摺りと後摺りでは、摺り師だけが違うということですね。
それと、時代によって捺されている判子が違いますので、これでも見分けがつきます。判子がないものは世に出たものではなく、試し摺りの類だとわかります。なお、他のところで摺られているものは「復刻版」としか言いません。 - 原画と版画の違い
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鈴木 新版画は、原画となる水彩画と、出来上がった版画を並べてみても、クオリティの上ではあまり違いが見られないほど、版画がよく作られています。ただ、下書きの段階とは、絵柄に違いが出る作品もあります。たとえば、岡倉天心が建てた「六角堂」を描いた絵などを見ると、水彩画と版画は「船があるかないか」の違いで見分けられます。それから絶筆の《平泉金色堂》も、水彩画と木版画を比べると、ちょっと違う。木版画をみると、何か、やはり「いい」と思うでしょう。この絵でも巴水は非常に構図にこだわって、実は、一番、お坊さんがお堂に近い絵を版画に残しているんです。ここには、巴水の死を前にした心情が表れているように思えます。
- スティーヴ・ジョブズと巴水
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鈴木 さて、私が大学の子たちに教えているとき、やはりスティーヴ・ジョブズの名前を出すと背筋が伸びます。では、ジョブズはなぜ新版画を愛したのでしょうか。30年前に彼がApple社を干されたとき、川瀬巴水の「西伊豆木負(にしいずきしょう)」を買い求め、やがて新版画のなかでも、特に川瀬巴水を愛すようになりました。
では、なぜ、ジョブズは、それほど新版画に惹かれるようになったのか。その理由のひとつは、新版画が、職人たちの共同作業で作られる芸術だからではないかと思います。版元がいて、絵師がいて、彫り師がいて、摺り師がいて、全員が力を合わせて、共同作業で絵を作っていく。彼らは、お金とか欲得では動かない。自分が気に入ったものだからこそ心血を注いで行う。そういう、日本人の職人の精神をもっています。ジョブズもその精神に共感したのではないかと思います。 - 海外での巴水
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鈴木 ユニセフのグリーティング・カードにも川瀬巴水の絵が使われており、非常に人気があります。外国の方は、巴水だと知らなくても、いい絵であれば買います。そういう方が「巴水だ」とわかって、日本に来ても「美術館がない」では、残念ですよね(笑)。それから、日本政府から国賓に差し上げる絵も、伊東深水と、川瀬巴水です。これも、日本の人のほうが知らないことですね。巴水の絵はホワイトハウスにも所蔵されているわけです。
ときに、巴水は12人兄弟なのですが、弟の嘉助さんは大蔵商事のロンドン支社長になって、現地の方と結婚し、そのまま向こうで暮らしています。文子さんにはお子さんがいらっしゃらないので、日本ではもう血筋が絶えてしまうのですが、英国では、嘉助さんから始まる川瀬家の血筋が続いています。大英博物館にも、巴水の絵は所蔵されていますし、もしかすると、この先、英国では日本よりも巴水が知られていくかもしれません。
展覧会は、携わる人間の熱い思い、心意気がないとできませんが、日本の美術館のキュレータさんは「評価されているものを取り上げる」傾向にあることもあってか、川瀬巴水も、大正新版画も、国内では、まだ知名度が低いままです。しかし、海外では非常に人気も知名度もあります。渡邊庄三郎は「輸出用」に新版画を作っていますが、その新版画は、元絵の水彩画と区別がつかないほどの、高いクオリティをもっています。それは、微妙なグラデーションと中間色をきちんと出すために、1枚の版画を作るために、30度も40度も摺っているからです。現代の印刷技術でも、同じ色は再現できない。海外でも、新版画は、ウッド・カット・プリント(Wood cut Print =木版画)ではなく、水彩画なのではないかと言われたほどです。それまで知られていた江戸時代の木版画とは、摺る回数が段違いだからです。たとえば、巴水の代表作《芝増上寺》は42度摺りと、巴水でも摺り度数の非常に多い作品です。それだけの手がかかった、高い技術が使われている作品ですから、海外ではすでに高い評価を得ています。日本のほうが、知らない人が多い。いま、日本こそが、新版画の魅力に気付かなければいけないと思います。たとえば、私は、巴水の美術館を、世界に先駆けて、日本に作るべきだと考えています。先日開館したばかりのバージニア州の美術館でも、川瀬巴水の震災前の絵を中心に、こけら落としの展示が行われました。世界の人が注目する新版画なのですから、それを求めて日本にやってきた人々に、新版画を知ってもらう場所がなければいけないと思います。
そして、川瀬巴水の地元である、ここ、大田区で、その美術館が実現できれば、なお良いと思っています。文子さんがお持ちの巴水のスケッチや日記帳もありますし、数百点の作品も所蔵されています。和紙作りから、彫り、摺り、仕上がりまで、新版画すべての工程を紹介しながら、新版画の作品を見られる美術館が、理想です。新版画の表面的な美しさだけでなく、その裏に隠された、日本の職人の技術も見られるような場所であって欲しいと思います。大田区に行けば、和紙作りから見られる美術館がある、となれば、海外の方も喜んでくださることでしょう。区民のみなさんからの声があれば、区役所も動けるはずです。美術館さえあれば、その維持・管理は、民間でも十分、やっていけます。どうか、お住まいのみなさんも、巴水を知って、声を上げて、一緒に頑張っていただければ、と思います。 - 「木版画」を伝える重要性
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鈴木 木版画は、いまこそ顧みられないと、どんどん廃れていってしまう文化になるでしょう。木版画の材料では、版木は樹齢100年を超える山桜から取ったもの、和紙は楮(こうぞ)から作った和紙が一番いいのです。ところが、山桜が酸性雨で枯れてしまうようになったり、楮が取れなくなってきたりしているのです。木版画を大事にすることは、環境を大事にすることにもつながります。水彩画と木版画では使う紙が違うので、版画に使う和紙は非常に絵の保ちがいい。だから、初摺りでも綺麗に残っているんですね。今でも渡邊版画店でも岩野市兵衛さんの作った和紙は、画家・レンブラントも使用したくらいです。
また、材料だけではなく、職人もどんどん居なくなっています。いま、巴水を摺る腕があるのは渡邊英治さん、ただ1人です。だから、日本ではもっと職人の育成に力を入れてほしいと思っています。新版画や巴水を通して、絵の魅力はもちろん、ものづくりの精神や共同作業の大事さ、環境問題なども含めて、いろいろなことに気付いてほしいと思っています。
巴水はこれから海外でどんどん知られていきます。日本の美術関係者ほど巴水の魅力を知らないこともあります。浮世絵は、日本の漫画やアニメのルーツにもなっている文化です。日本文化全体としてとらえれば、いまこそ最後の浮世絵である「大正新版画」は大きな役割を果たすはずなんです。
いま、資料や作品をきちんと保存しておかないと、散逸して、無くなってしまうかもしれません。そして、無くなったものを取り戻すにはものすごいお金と時間と労力が要ります。だから、いまのうちに巴水の作品やゆかりのものを、大田区で残していってほしいと思っています。本日は、ありがとうございました。(取材日:2015年6月20日 東京都大田区馬込出張所にて)
絵師・川瀬巴水の生き様
世界のHASUI
- さっそく本題ですが、川瀬巴水の「手賀沼」の絵と、鈴木さんのエピソードについて、お聞かせいただけますか?
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鈴木 じつは、私自身、いきなり、あの絵に出会えたわけではないんです。1992年、柏高島屋で《手賀沼を愛した文人》展という展示がありました。「高島屋」さんから「地元の文化で展覧会ができないか」と打診され、企画しているうちに「白樺派」と「手賀沼」がキーワードに上がってきた。北海道の三岸好太郎美術館からも作品を借りてきて、全国から「手賀沼」に関する作品を集めた。報道の助けもあって、当時としては一番、入場者が入った展覧会になったと思います。我孫子の小熊勝夫さん(我孫子市史研究センター初代会長)と柏の園邊實さんや砂川七郎さんにも実行委員に加わってもらい、結果的に、展覧会は大成功に終わりました。
- その展覧会のとき、まだ巴水の作品は出てきていないんですか?
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鈴木 そうです。その《手賀沼を愛した文人》展が終わって、数ヶ月した頃かな。実行委員の園邊さんが、亡くなったというので、彼の自宅へ伺いました。そうしたら、彼の遺品のなかに、川瀬巴水の「手賀沼」の絵があったんです。《手賀沼を愛した文人》展には、間に合わなかったけれど、手に入れておいてくれていたのでしょう。昭和5年6月2日に刷られた巴水の絵だということが分かったので、園邊さんの息子さんに「買い取らせてください」と言って、ギャラリー・ヌーベルで買い取ったんです。その後、絵が本物かどうかを確かめるために、渡邊木版画店に行ったら「これ、本物ですよ」と言われて「どうして手賀沼なんか描いてたんでしょうね」と訊いてみたら「それは、わかりませんが、版木がもう第二次世界大戦で燃えてしまっているので、この絵はかなり貴重ですよ。コンディションもとてもいいです」と、お墨付きを頂いた。それがきっかけで、渡邊木版さんのご協力もいただいて、巴水展を、うちの画廊でやったんです。巴水だけじゃなくて、ゆかりの作品も含めて展示しました。
- 鈴木さんは、渡邊木版画店さんはもちろん、川瀬巴水の養女である文子さんとも親しくされているそうですね。文子さんとは、どのような経緯で出会われたんですか?
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鈴木 ギャラリー・ヌーベルでの巴水展に、たまたま川瀬文子さんのご友人がいらしたんです。そのご友人の紹介で、文子さんご自身も、足を運んでくださった。文子さんのことだって、私も、はじめは普通のお客さんだと思っていたんです。ただ、手賀沼の絵をじいっと見ていらっしゃるので「川瀬巴水って、ご存知ですか?」と尋ねたら「実は・・・娘なんです」って言われて。私が「川瀬さんって、お子さんがいらしたんですか!」と驚いたら「はい、養女なんですが、巴水は、私の父です」と。それで、画廊で2〜3時間、お茶を飲みながら、話をさせていただいた。それで、お互いに「今後とも、ぜひお願いします」ということで、文子さんとの親交が始まったんです。
文子さんも江戸っ子気質ですから、最初は、警戒しながら、という感じでしたが、何度もお会いしているうちに、だんだん、親しくなってきました。文子さんご自身は、ご結婚が遅かったので、日本には川瀬巴水の血縁の方は、もう、文子さん以外にいらっしゃらないんですよね。だから、文子さんがご健在のうちに、巴水について、いろいろなことを聞いておきたいな、と思っています。 - 画廊で展示をなさったあとは、全国で次々に展示をなさっていますね?
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鈴木 当時、新しく赴任された柏高島屋の店長さんが、じつは巴水の熱心なコレクターだったんです。それで、うちに展示されている「手賀沼」の絵を見て「これ、巴水じゃないですか。鈴木さん、柏で巴水の展示をできませんか」とおっしゃったので、私は「渡邊木版画店さんが絵を貸してくださるなら、やれると思います」とお答えした。「では、費用は高島屋で出します。やりましょう」ということで、2010年4月、柏島屋で巴水展(「『手賀沼』制作80周年記念川瀬巴水木版画展」)を開いたわけです。
- 朝日新聞などでも、巴水の手賀沼が『発見』された、と報道がありましたね?
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鈴木 ええ。それから、柏高島屋での展示のとき、我孫子の市長さんや図書館長さんが「巴水の手賀沼がある」というので、お見えになった。そうして、私に「巴水の展示、我孫子でもできませんか?」と持ちかけられたので、「予算と場所さえあれば、可能ですよ」とお答えした。その後、我孫子市役所の方から、我孫子市でも正式に巴水展をやりたい、と打診があった。当時の青木副市長から、教育長さんや、市役所の上役さんたちが揃っているところに呼ばれて、あびこ市民プラザで、平成23年に巴水展を催したんです。『夕暮れ巴水』を著した林望さんも呼んで、講演までしていただいた。
■川瀬巴水木版画展の案内はこちらから(PDF形式)
その後、3.11のあとに、復興も兼ねて、水戸駅ビルでも展示をしました。高島屋さんからも、ほかの店舗でやりたい、と打診があって・・・そこからは、トントン拍子で進んでいったわけです。
とはいえ、NHKに「展示をやりましょう」と持ちかけたときには「巴水なんて全国的には知られてないからダメです」と、あっさり断られたんです。けれど、諦めずに何度も持ちかけた。その間に、千葉市立美術館や高島屋さんの協力が得られて、NHKさんもOKを出してくださり、全国での巡回展になったんです。百貨店と美術館はちょっと、水と油の部分もあるんですが、興行収入の面では、百貨店と連携した方がずっといいでしょうね。商業ベースにはなるけれど、企画自体は、協力したほうが相乗効果があると思い、千葉市美術館からスタートして、美術館4館、高島屋大型店4館、計8館をめぐって、高島屋日本橋で終わらせるということにまとまったわけです。
「手賀沼」との出会い
川瀬巴水の養女・川瀬文子さん
柏市・我孫子市での展示、そして全国へ
川瀬巴水と「手賀沼」の絵
- ところで、巴水は、どんな経緯で手賀沼を描いたのでしょうか?
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鈴木 ハッキリしたことは、分かっていないんです。ただ、伊東深水(巴水の兄弟子)が懇意にしていた井上さんが、我孫子に別荘を持っていたので、夏になると、深水がときどき涼をとりにきていた。だから、巴水が手賀沼に来たのも、深水に呼ばれたのが理由かもしれません。
- 巴水の「手賀沼」の絵は、実際とは変わった構図になっているそうですね?
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鈴木 そうです。本当は、手賀沼の我孫子市側に、入道雲は出ないんです。海側にでるものですから。巴水には、そうやって絵を「作って」いる例は、たくさんありますね。
- 巴水は夕暮れや夜を評されることが多いですが、「手賀沼」は昼の絵でも、とてもいい絵に仕上がっているように思えます。
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鈴木 手賀沼でも、早朝なんかに雲を見ると、紫からピンクへ、刻々と変わっていく雲の色合いが、よく見えるんです。巴水はそういった自然の色の移り変わりが好きだったのでしょうね。その「色の変化」を、いかに絵に落としこむかが、絵描きとして表現したかったことの1つなんでしょう。それに、この絵は、雲がないと、絵として殺風景になるでしょう。だから、自分の後ろにある美しい雲を、本来は見えない方向だけれど、沼の向こう側に描いたんですね。
- 巴水の画業全体のなかで「手賀沼」の絵は、どういう位置付けになるんでしょう?
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鈴木 手賀沼を描いたのが47歳のときですから、寿命も近いだろうと思っていたころに描いた絵だと思いますね。「描くぞ」という力んだ気持ちで描いたわけでも、頼まれて描いたわけでもなくて、自分の自然な気持ちで描いている作品だといえるでしょう。そもそも「絵になるところを描くのは好きではない、絵描きは何でもないところを絵になる様に描くのがプロだ」と巴水自身も書き残していますが、手賀沼も、何もないから雲を足したわけです。そういうことをするのが、絵描きとしての技術だと。
- そういえば鈴木さんは、NHKで放送された巴水の番組で、絶筆《平泉中尊寺金色堂》に、巴水が、自分の思いを重ねているのではないか、とおっしゃっていましたが・・・。
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鈴木 巴水は、昭和32年に胃がんだと分かってから、同じ年の11月で亡くなっています。絶筆を仕上げる時には、もう自分の死期を悟っていたのでしょうね。文子さんの話だと、あの絵を描いているとき、巴水は階段を上がったり降りたりして「構図がなかなか決まらない」と苛々しながら描いていたという話です。それで、最後に仕上がったのが、一番、御堂に近いところに、人物のいる絵になった。巴水は、これが刷られる前に亡くなってしまいました。完成を見ることはできなかったんです。だから、この絶筆の絵は、自分の死期を悟った「最後の絵」としての思いが籠っているように見えます。自分の一生を振り返って「色々あったけれど、いい人生だった」と思えたんだろうな、と感じられますね。
鈴木氏と「HASUI」
- 鈴木さんは、本当に熱心に、巴水のことに取り組んでおられますね。
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鈴木 渡邊木版画店さんなんかは「巴水を有名したのは鈴木さんだ」と言ってくれますね(笑)。僕は、マーケティングが本業だから、たまたま、スティーブ・ジョブズが巴水を愛していたことだとか、日本政府の海外向けアピールに巴水がたくさん使われていたのに、それが日本の人にあまり知られていなかったことは、もったいないと思って、いろいろやっていったんですよ。何事も、興味を持って取り組めば、分かってくるものです。
じつは、巴水の絵は、ユニセフのグリーティング・カードにも使われているんですよ。スイスのユニセフの職員が個人的にも好んでいて、海外では本当に人気が高い。国境を越えて愛されているわけですね。絵のなかにサンタクロースがいる様子、ちょっとかわいいでしょう(笑)。
巴水は洒落好きでしたから、そういうユーモアの現れなんですよね。日本人の「美意識」という高尚なものよりも、洒落や「粋」を大正新版画のなかで表していたという点が、いちばんの特徴だと思いますね。母方の兄(叔父)が仮名垣魯文で、日本の「漫画」のルーツになるものを作っていたことや、大正新版画の誕生と同時に亡くなった小林清親の絵が持っていた「新しさ」や「光」の影響なども受けている。巴水は、そういう変わった感受性のある人が身近にたくさんいるなかで生きていたんです。(古今亭)志ん生が巴水の死に水をとっているくらいで、落語にも繋がりがあったし、歌舞伎や芸事にも親しんでいた。そういう「ネタ」には困らなかったでしょうね。兄弟子である伊東深水は12歳の時から才能を見出されたわけですが、巴水はずっと、認められることがなかった。それで、35年間ずっと溜め込んでいたセンスが「木版画」というものを通じて、一気に開花したわけです。それが、多くの人に受け入れられるものになっている。 - 鈴木さんが巴水にこれだけ情熱を傾けているのには、どんな理由があるのでしょう?
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鈴木 巴水と自分に、身近なものを感じる、ということがありますね。同じ大田区馬込で過ごしていたからかもしれません。巴水自身は「そのあたりにいるおじさん」という感じなんです。いまは、たまたま「絵描き」として知られているけれど、巴水は、普通の人と同じように、普通の人生を歩んできている。巴水は、たまたま「絵」が適していたというだけで、普通の魚屋さんや八百屋さんと、感覚が変わるわけじゃない。
- 巴水には「芸術家」という意識はなかった、ということでしょうか?
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鈴木 そうですね、巴水には「芸術家意識」なんてなかったでしょうね。単に、自分のやれることをやっている、その「やれること」が「絵」だから、自分のなかにある「洒落」や「粋」の精神を「絵」のなかに表現した。巴水は「自分の普通の人生だってまんざらじゃなかったんだ」と、絵を通して言っているような気がしますね。巴水は、たまたま「木版画」で開花しましたが、それも、洋画と日本画での挫折を経てのことです。
人間にとって大事なのは「誰と出会い、何に気づき、どう生きるか」です。有名になりたいとか、お金をたくさん稼ぎたいとか、そういう欲得がなくなったときに、本当にいいものができるんです。
僕なんかは、死刑囚の絵を見たときに、それを一番よく実感しましたね。たまたま、ある人が連れて行ってくれたんですが、想像とは全く違った。もう二度と外の世界に出られない彼らの絵は、とても、印象的だった。突然、見に行くことになったということもあって、本当に衝撃だった。厳しい環境をくぐり抜けてきた精神には、やはり、すごいものがあります。「自分の生きてきた人生の喜び」を、巴水は描いている。だから、見ている人を「動かす」ような絵が描けたんでしょう。展覧会に来た人からも、巴水の絵を見て「素の自分を見つけられた」という声が多く寄せられます。
僕は「自分が感じた絵の展覧会は3回見なさい」と、必ず言うようにしています。1度目では、まだ表面的なものしか見えない。3回見れば、その絵がもっている「裏側」が見えるようになる。だから、展覧会には何度も来てもらうのが一番大事だと思いますね。身体で感じなきゃいけない。「本物を見る」とは、そういうことだと思います。その、身体で感じる力には、年齢は関係ないですね。たとえば、巴水自身、目が悪かったのに、とても筆が早かった。ものの急所を、すぐに見抜く力を、彼は「身に」つけていたんです。晩年には「風景が版画に見える」と言っていたほどで、やはり、プロの「職人」なんですよね。
巴水は、彫りも刷りも必ず、自分でチェックしていますから、最後まで自分のこだわりを貫いていますね。出来上がった絵に注文をたくさん出している。巴水のように、絵師が、刷り師や彫り師に意見をいうのは、版画の世界では、じつは異例なことです。でも、それだけこだわっていたから、いいものが出来上がっているんでしょうね。
ちなみに、大正新版画の時期は、棟方志功たちの「創作版画(自分で下絵から彫り・刷りまで行う手法)」も多くなってくる時期でしたから、巴水は、自分でも彫りと摺りをやってみたんだそうです。でも実際にやってみて「斧の銀ちゃん(巴水をおもに刷っていた刷り師)には敵わない」と言って、やめたんだそうです。結局、自分には、絵を描くほうが適しているんだから、刷りや彫りはプロに任せて、最後にチェックする、という元の形のまま進んだわけです。
巴水自身、「版元、彫り師、刷り師、絵師とが全員、一体になったときが、一番いい絵ができる」し「そういうときは、酒がうまい」と語っています(笑)。もちろん、職人たちと喧嘩もたくさんしたそうですが、それは、いい絵を作るための言い合いですから、必要な喧嘩なんですよね。 - 2020 年に東京オリンピックも控えていて、日本文化の見直しがはかられていますが、そういった時代状況のなかで、これから先、巴水は、どのように広がっていくべきだと思われますか。?
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鈴木 たとえば、僕は、巴水の住み着いた大田区に「美術館を作りましょう」とかけあっています。だけど、それは、たんなる絵を並べた美術館ではなくて、作るプロセスまで含めて紹介する、ものづくりの裏側まで見えるような美術館にするべきだと言い続けています。
版画というものは、和紙や、ばれんや、版木を作る人がいて・・・すべての段階で、それぞれの職人のこだわりがすべて組み合わさって、最終的に一枚の絵に仕上がる。だからこそ、いい絵になる。その、表面的には見えない価値を、海外の人にも見せていくべきだと思います。そこにこそ、日本の文化のロマンがあり、哲学があります。もう、気付いている海外の人もいますし、そういう人は何度も日本に足を運んでいますね。
たとえば、京都なんかも、あの小さな土地の中に日本文化の良さが凝縮されているから、それを知ると、何度も訪れるようになるわけです。例えば、フランスやイタリアに比べると、日本はまだ知られていない。日本文化の良さをきちんと発信していけば、もっと評価されていく見込みがあるでしょうね。日本人は、どうも売り込むのが下手ですからね。日本人は、もっと日本文化自体の良さに気付いていかなきゃいけないと思う。海外の人にも、日本文化の、表面的ではない、奥深い部分に気付いてもらえるように、日本人自身が、今ある日本の良さが、どんな流れの上に成り立っているのかを知っていかなきゃいけない。
そう思って、僕は「巴水を伝える」という形で、実際に行動しているんです。僕は、たまたま巴水と出会ったから、その大事さに気づけた。商売で全部終わっちゃいけないな、肩書きなんてどうでもいいんだな、と、巴水の絵と出会って、思ったんです。だから、人間、「何に気づくか」ですよね。多くの人に、日本の職人の技術のこだわりや、その素晴らしさに、気付いてほしいなと思います。巴水は、ユニセフのグリーティング・カードに使われていること、ジョブズが愛したことが知られていますけれど、絵にこめられた職人のこだわりも見られるようになってほしい。そして、人生誰と出会い、何に気づき、どう生きるかと何を選択し優先するかで、大きく変わる自分次第である、と思います。 - 本当に、深い世界ですね。手賀沼から出発して、日本文化自体の奥深さから、世界での評価まで、いろいろなお話を聞かせていただきました。今日は、本当に、ありがとうございました。
■写真:宮島の雪景 川瀬巴水 作
■写真:厳島之雪 川瀬巴水 作
鈴木 ありがとうございました。
(取材日:2015年8月7日 ギャラリー・ヌーベルにて)