―― 手賀の森、生い茂る雑木林の奥に、1軒の工房が、看板もなくひっそりと建っている。
「ThornTree(ソーンツリー)」は職人・斎藤弘幸さんが一人で営むギター工房。ギターをはじめとした弦楽器の修理、オリジナルギターの製作、インレイ(貝・石などの嵌め込み装飾)、ほか各種木工品の製作を請け負っている。楽器の「元の姿」を大切にする斎藤さんの腕はギター愛好者から広く評価され、日本各地のみならず海外からの依頼まで舞い込むほどだ。
今回はその工房にお邪魔し、斎藤さんのギター製作・修理の歴史と現在の仕事、そして手賀の森での暮らしぶりについてうかがった。
手賀の奥地に暮らす
- 噂には聞いていましたが、本当に、周りには1軒も家がありませんね。柏市の中でも、特に閑散としている地域ではないかと思います。こういう、いわば「辺鄙な場所」に工房を開いたきっかけは何だったんですか?
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■写真:斎藤さんが建てたという工房の裏手にある塗装用の小屋。
斎藤 ギターの工房って、人里離れたところじゃないと不都合が多いんですよ。特に、塗装に使う塗料が問題で、「シンナーの匂いがする」とすぐにご近所から苦情が出てしまうので。
- 柏(旧沼南町)で工房を開かれたのは、いつごろだったのでしょう?
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斎藤 12〜13 年前でしょうか。以前は埼玉の、やはり、こういう静かなところで工房をやっていたんです。そこが手狭になってきた頃、 (旧)沼南町に良い物件があるということで、移ってきました。茨城の楽器店さんとも取引があったので、ちょうどよかったんです。 ここは、捨て猫も多ければゴミの不法投棄も多い場所なので、大家さんにも「人が住んでいてくれた方が安心」と言われて、おかげさまでけっこう好き放題、改造させてもらっています。猫にも懐かれましたし・・・とはいえ、本当に周囲に何もなかったので、初めて泊まった晩は、さすがに緊張しましたね(笑)。
- 生活にご不便はないんですか?
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斎藤 特に不便は感じませんね。駅や街まで飲みに出て行ったりすると、 車が使えないので億劫だ、というくらいでしょうか。こういう生活に慣れてしまったので、逆に、もう都会には住めないでしょうね。壁を挟んで隣りに他人が住んでいるマンションなんて、考えられませんよ(笑)。
- 製作に集中するには最適な場所、というわけなんですね。お客様には、どんな方が多いのでしょう?
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斎藤 今は楽器店からの請負をやめて、直接お店に来ていただいているお客様だけなので、クチコミで噂を聞いた人や、facebookでの修理の様子を見て来た方が多いですね。音楽教室で紹介してくださっていることもあるようです。 柏の方からの依頼も多いですが、千葉県内に工房が少ないので県内さまざまなところから、遠くでは愛知県から、という方も・・・。それから、ロスアンゼルス在住の日本人の方が海外から送ってきたギターも直していますね。
- ロスからここまでギターを送るんですか!本当に腕を信頼されている証拠ですね。
■写真:裏手には竹林と、キャンプ場のようなスペース。カヌーも手作り。
- 月に何本くらいの仕事をされるんでしょうか?
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斎藤 月にもよりますが、だいたい10数本から20本くらいだと思います。
- 年にすると、結構な数になりそうですね。ギターの修理というと、たとえばどんな依頼が多いのでしょうか?
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斎藤 弦やペグなどの消耗品の交換にはじまり、ナットやフレットなど部品の付け替え、塗装が剥げたとか、ネックが折れたとか・・・いろいろですね。 木製のギターは、湿度や温度の変化で反ったりねじれたりしてきますから、ネックの反り・ゆがみを直してほしい、という依頼も多いです。
- このギターには、穴が開いてしまっていますね。
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斎藤 ボディに空洞があるアコースティック・ギターの場合、こんなふうにボディに開いた穴を塞ぐ修理がよく来ます。穴の開いた部分を取って、同じ木材を、同じ形に切ってはめこむ。
- たとえば、どういうときに穴が開くんですか?
斎藤 物を落としたり倒しちゃったりすると、結構すぐ穴が開いてしまうんですよ。足を引っ掛けちゃったとか、掃除の時に倒しちゃったとか・・・。面白い話だと、一度、そこらじゅう穴だらけになったギターが持ち込まれたことがあって、「一体どうしたんですか?」と聞いたら「夫婦喧嘩で、女房に包丁で刺されたんです」と・・・。
- それは怖い!
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斎藤 体じゃなくて、まだギターで良かったですよね(笑)。
- 素人考えでは、穴の開いた部分だけ木材をはめこむより、ボディを全部取り替えてしまった方が簡単なのでは、と思ってしまうのですが。
斎藤 いや、確かにそういう修理も可能ですけれど、全部取り替えてしまうと、音も完全に変わってしまうので、なるべく元の部分を多く残して修理するようにしています。木製の楽器は木が経年変化することで、音が深まっていくんです。表面の塗装を変えるだけでも、違う音になってしまうので。 もちろん、今は楽器も安くなっていますから、修理よりも買い替えのほうが安い場合だってあります。それでも「修理に持ち込む」っていうことは、楽器に何かしら思い入れがあるっていうことですよね。だから、僕はその気持ちを大切にしたいんです。
- その人の、楽器との思い出を大切に残して修理するわけですね。
- 斎藤さんはギターのインレイ(石や貝で行う装飾)をご自分でなさることでも知られていますね。インレイの技術も専門学校で学ばれたんですか?
斎藤 いえ、独学です。
■写真:製作中の12弦ギターのネック部分にもインレイが入っている。
- えっ!独学で、ここまで精密な装飾を?
斎藤 はい。実際、学校で習ったことってそんなに実際の仕事には使いませんよ。どのギターもそれぞれ違いますから、自分で触って試行錯誤しながら技術を身につけるものです。
■写真:12弦ギターに入っている鳥のインレイ。黒っぽい部分の素材はアワビ。
- 「インレイ」というのは、一般にはあまり馴染みのないものですが、どんな風に入れていくのでしょうか?
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斎藤 まずデザイン(写真左)を起こして、それに合わせて嵌め込む材料を切り出します。真珠の親貝になるアコヤ貝の殻や、アワビの殻、真鍮。これ(写真右)が切り出したあとの残りですね。
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斎藤 それから、切り出したあとのパーツをギターに当てて、型を写す。 その型に沿って木を彫り出して、パーツを埋め込みます。一度樹脂で上から覆ってしまって、フラットになるまで研磨していく。たとえば、この鳥(写真左)は18個の小さなパーツを組み合わせてできています。切り出したパーツを先に組み合わせて接着してから、全体の型を写して、埋め込みました。
- 本当に精密な作業ですね。
- 斎藤 じつは、この工房の「ソーンツリー」っていう名前も、ネックで好まれるインレイの柄の名前なんですよ。
- 工房の名前にもつながるんですね。斎藤さんの、インレイへの思い入れが伝わってきます。
- 工房じゅう、材料も、部品も、型も、道具も、機械も、ものすごい種類がありますよね。木もたくさんある。
斎藤 ギターにはさまざまな材質の木が使われるので、この工房にも常にいろいろな種類の材木を揃えています。初めて来た方は「木の匂いがすごい」ってびっくりされますね。僕はもう鼻が慣れっこになっちゃって、わからないんですけど(笑)。
■写真(上):棚に掛けられた無数の型。ギターから型をとり、アクリルで作る。
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斎藤 なかには、輸入規制がかかっていて、入手困難なものも多いんです。 このメイプルの木材は、普通の木目だと1本で2,000円くらい。この特殊な木目のものは1 本で10,000 円くらいします。
■写真:高価な虎目のメイプル(楓)材。
- そんなに値段が違うんですか!
斎藤 変わった木目のものは、特に好まれるので。ほかにも、また別の修理で使うかもしれないと思うと、小さな切れ端でもなかなか捨てられなくて、自然と材木だらけになってしまいました。ときどき、余った材木でスプーンやらフォークやら、箸やら作ってます。
- まるで売り物みたいですね。どこかで売りに出さないんですか?(笑)
斎藤 売るってなると、作る気がなくなっちゃうと思いますよ(笑)。よく、僕は「職人」って言われるけれど、本当の職人って、地味な作業をずっと繰り返して、同じクオリティの、同じものを作り続けるわけでしょう。でも、僕は地味な繰り返し作業ってあんまり好きじゃないんです。コツコツ、じーっと同じことを続けるのには耐えられない。だから、僕はスプーン職人にはなれませんよ(笑)。 でもね、初めはスプーンだって箸だって、箸箱だって、作ったことがないから「どうやったら作れるんだろう、自分に出来るかな」と思いながら作ってみるんです。それが分からないうちは楽しいけれど、あ、作れるな、って分かっちゃうと、もういいや、って思っちゃう(笑)。 ギターの修理や製作の場合は、ひとつひとつ全部違って、取り組むたびに「どうやったら出来るかな」と考えるので、飽きないんだと思いますよ。
- いわば、自分へのチャレンジのようなものなんですね。
斎藤 そんなところです。じつは、この機械も自分で作ったものです。型に合わせて、側板を曲げていく機械なんですが。
■写真(右):自作の機械。ギターの側面に使う板をボディに合わせて曲げる。持ち手の木の柄に斎藤さんのこだわりがある。
- えっ、市販されていないから作った、ということですか?
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斎藤 いえ、普通は市販されている機械です。その機械の、設計図だけを買って作ったんです。機械を買うと高いけど、設計図だけならはるかに安く買えるので(笑)。ハンドルのところはちょっといい木目の木を使いました。板を接着するときに固定しておく機械なんかも、自分で・・・。
- 設計図があるとはいえ「高いから自分で作っちゃおう」という発想がすごいです(笑)。
- 斎藤さんはギターだけでなく、カヌーも小屋も、そしてスプーンや箸まで(笑)本当にさまざまなものを作られますが、もともと、木工への興味からこの道に入られたんでしょうか?
斎藤 いえ、ギターの道に入ったのはギターが好きだったからです。ギターが弾きたくて弾きたくて、バンドを目指していたこともありました。ただ、子どもの頃から確かに、物を分解してみたり、中の構造を覗いてみたりするのは好きでした。壊れているものを直そうとして、余計に壊してしまったりなんかする(笑)、ネジがあると外してみずにはいられない性分でした。
- 2つの趣味が、合わさったわけですね。
斎藤 ギター修理に興味をもったのは、高校のとき。自分のギターが壊れて、楽器店に持ちこんだら「修理するより、新しいものを買った方がいい」と冷たくあしらわれてしまって。すごく嫌な思いをしたんです。高校生で、お金もないなかで買ったギターです。愛着があった。なんとか、これを自分で直せないか・・・と、思ったわけです。それで、高校卒業後はギター修理の専門学校に通って、母校で2年ほどアルバイト講師をしてから、独立しました。
■写真(右):昔作ったという斎藤さんのギター。
- 今は、ご自分では演奏されないんですか?
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斎藤 ほとんど弾かなくなりましたね。自分で弾くギターは買わないし、作らなくなってしまいました。昔、自分で作ったギターとバンジョーはありますけれど。そもそも、仕事で、数百万するようなギターにも触れるので、所有欲がなくなってしまうんですよ。
■写真:自作のバンジョーには斎藤さん自身の名前が刻まれている。
- ちなみに、これまで依頼された中で、一番高価なギターは何ですか?
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斎藤 Fender社の「ストラトキャスター」、1956年のモデルが、僕がこれまで預かった中では一番高かったと思います。当時で1,000万円くらいしたんじゃないかな。
- 1,000万円!そんな楽器を直すとなると、緊張しませんか?
斎藤 確かに緊張しますし、なるべく早く持ち主に返したいと思いますけど(笑)、でもね、どのギターでも緊張しますよ。ギターって、持っている人にとって、それぞれ、たった1本しかないんですから。1本1本、決して同じものは無い。「失敗しちゃいました」と言って同じ型のギターを渡したって、それは「違うギター」なんです。だから、絶対に失敗ができない。常に緊張します。
- 失敗してしまったことって、ありますか?
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斎藤 一度、ケースを猫に引っ掻かれちゃったことがありますかね(笑)。あとは、記憶の限りでは大きな失敗はなかったはずです。お客さんに「納得いかない」と言われたら、もう一度修理することもありますが。
- 失敗しない秘訣には、どんなものがあるのでしょう?
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斎藤 ときどき、お客さんが「ゆっくりでいいから(じっくり直してね)」と言ってくださるんですけど、じつはギターを直すのに「ゆっくり」なんて無いんです。何に時間がかかっているのかというと、ほとんど考えている時間。1本1本、壊れ方も違うし経っている年数も違うから、どのギターでも、実物に刃を入れる前に、何度もシミュレーションする。方針が決まったら、そこで初めて刃を入れるんです。
- 作業はもちろんのこと、前段階でイメージを固めることが大事なんですね。
思い出を残して直す
■写真:穴が開いてしまったギター。
ギターを彩る《ソーン・ツリー(棘の木)》
■写真:ネックに好まれる「ソーンツリー」の図案。
「手作り」にあふれた工房
■写真:「仕事の合間に作った」というスプーンやフォーク。売り物かと思うほど見事な出来。
「手作り」にあふれた工房
津波から生還したギター
- ギター修理の中で、難しい作業には、どんなものがありますか?
斎藤 ネックがボディと接着剤で付いているタイプ(セットネック)の楽器の修理は、人によっては断ってしまうこともあるといいますね。剥がして修理しなきゃいけないので、ネジで止めるタイプ(ボルトネック)のようにはいかない。じつは、この種の修理は、安価な楽器ほど難しいんですよ。大量生産のための効率重視で、修理して使い続けることまで考えていない。そういう、作る側の都合で、剥がせない接着剤を使ってしまうんですね。高級な楽器や古い楽器だと、作るときから「修理して使い続ける」ことを考えてあるので、難しいとはいえ、安価なものよりは手が入れやすいんです。
■写真(上):ネックを接着剤で付けている「セットネック」のギター。修理のため、ネックが綺麗に外されている。
- これまでで一番難しかったのは、どんなギターの修理でしたか?
斎藤 東日本大震災の津波で、海に流されてから陸に戻ってきたというギターですね。水が引いたあと、山の上で発見されて、持ち主の手に戻されたんです。ケースに入ってはいましたが、海水に浸かりきってしまっていて、中も泥だらけで。それでも、その人にとっては「震災前の唯一の持ち物」だった。避難所でも壊れたまま弾いて、周囲の人を励ましたんだそうです。
- それが、斎藤さんのところに修理に出されたんですか?
斎藤 はい。思い入れも大きいので、修理に出そうとしたら、どこの楽器店でも断られてしまったんだそうです。それが、たまたま知り合いのツテで、僕のところに回ってきた。とはいえ、僕自身も、直せるのかどうかわからなかったんです。いっぽうで「この状態のギターを自分の力で直せるのか、試してみたい」とも思った。だから「直らないかもしれませんが、やってみましょう」と言って、引き受けることにしたんです。
- まさに「初めて」の事例ですよね。無事に直ったんですか?
斎藤 はい。すべての部品をいったん完全に分解して、綺麗に乾かして、中の泥を出して、組み立てて…結局ほぼ丸1年かかりました。元がいい楽器だったので、修理できたんですね。修理が終わったときには、持ち主がこの工房まで引き取りに来てくださいました。とても喜んでいましたね。僕も南三陸まで演奏を聴きに行ったことがありますが、無事に演奏できていました。
- 思い出や、もともとの木の音を大切にする斎藤さんだからこその、立派なお仕事ですね。ギターもきっと喜んでいることでしょう。 今日は、お話しいただき、ありがとうございました。これからも、手賀の森から素敵なギターをたくさん送り出してください。
斎藤 ありがとうございました。
■写真(右):工房まで引き取りに来られた持ち主と修理されたギター
(取材日:2016年2月1日 ギター工房ソーンツリーにて)