―― 躍動する筆が画面いっぱいに跳ね回る墨絵、一挙に引き込まれる濃密な色彩の油彩、どこか素朴な印象をもつ版画……長縄えい子さんの絵は、画材にも題材にもとらわれず、幅広い手段で表現されている。「男の人を選ぶときはじっくり選ぶけれど、画材は選ばないんですよ」と、華やかに笑う長縄さん。東京深川に生まれ、「自由の学校」セツ・モードセミナーに学び、柏市に移り住んでからは自身でも絵を教えて約40年。通常の絵画のほか、薬師寺(奈良)の散華(さんげ)や、大洞院(柏市)の壁画、春山寺(流山市)の香炉にも絵を提供する長縄さん。現在は、地元に根付く出版を続ける「たけしま出版」の社長・竹島いわおさんをパートナーとして日本や世界の各地をめぐり、精力的に絵を描き続けている。
今回は、長縄さんと竹島さんのお2人に話をうかがい、絵を始めたきっかけから今日に至るまで、そしてカンボジアやスリランカでの支援活動など、彼女の豊かな人物像をたずねた。
*敬称は省略させていただきます 。
個性あふれ出す少女時代
- 現在、油彩、水彩、アクリル、墨、版画など、実にさまざまな画材で絵を描きつづけている長縄さんですが、かつては、ご親戚のもとで、日本画を習われていたと聞きました。その頃のことを伺えますか?
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長縄 私の父のいとこが、川崎小虎(かわさき・しょうこ/日本画家、1886-1977)だったので、小さい頃、よく遊びに行っていたんだそうなんです。子どもですから、習っていたというほどじゃないんです。見よう見まねで、いたずら描きみたいなものを描いていたようですね。
その頃、私たちの年代では「きいちのぬりえ」(画家・蔦谷喜一の塗り絵)が流行っていたもんですから、みんな、その塗り絵をしていましたけど――私はその絵の、足が太いのが嫌でね(笑)。嫌だから、自分で塗り絵を作っちゃったんですよ(笑)。 - ご自分で作ってしまったんですか。それはすごいですね(笑)
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長縄 ええ、着せかえ人形も塗り絵も、自分で作っていました(笑)。 そのあとはね、東京の高校にいるとき、江東区の区民展に出さないかと言われたことがありました。美術部だったから、声がかかったんですね。「何を描いたらいいでしょうか」と聞いたら、先生に「花を描いたらどうだ」って言われたんです。でも、その当時、家の周りに、花屋さんなんてなかったんですよ。それで、どうしようかな、と悩んでいたら、父が、仏壇から花を取ってきたんです(笑)。
- まさか、仏壇の花を…。
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長縄 ええ、花瓶まで全部描いて、展覧会に出しました(笑)。周りはみーんな普通の花で、私のだけ仏壇の花だから、とっても目立ちましたね(笑)。でも、普通の花ばっかりじゃ、つまらないでしょう。今でもその絵は、自分で持っていますよ。
それから、高校を出てすぐ、18歳の頃は、母の弟(伯父)が発行していた代々木の「理容美容新聞」に美容のイラストを描いて、一応はイラストレーターとして稼いでたんです。
でも、やっぱり大学で絵を習いたいわ……と思って、父にそう言ったんです。だけど父は「女は大学になんて行くもんじゃない、大学で絵なんて習うもんじゃない」って言うから、私、別の手段を考えたんです。 - 「別の手段」ですか?
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長縄 「お金を持っていて私のことが大好きな人」を探したんですよ(笑)。
- なるほど(笑)。
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長縄 そうしたら、本当にいてね(笑)。24年前に亡くなりましたけど……。とにかく、そんなわけで「セツ・モードセミナー」に通えるようになったんです。
―― セツ・モードセミナー( http://www.setsu-mode.com/ ) ファッション・イラストレーターの長沢節が1954年に開いた「長沢節スタイル画教室」を前身とし、設立された学校。美術史教育や描画法の教育をせず、卒業後の就職先紹介も行わず、ひたすら自分の力で絵を描くことに集中するためのカリキュラムを設定。自由な学校であるために、学校法人の形態をとらずに運営されてきた。出身者には川久保玲(コム・デ・ギャルソン)や山本耀司(ヨウジヤマモト)のほか、ホンマタカシ、安野モヨコらが名を連ね、ファッション業界・イラスト業界のみならず、写真、ジャーナリズム、漫画など、幅広い芸術分野に才能ある作家を輩出してきた。 節氏の没後は、甥の長沢秀によって運営されてきたが、2017年、長沢節の生誕100年をもって閉校する。
長縄 そこは変な学校でね、入学試験がなくて、当時は「先着順」で入学者を決めていたんです。ただし、絵が良くないと、落第するんですよ。進級すると、だんだん学費が安くなって、OBになるとタダで通えるようになる。通っている間は、もちろん、アルバイトなんてしていられない。気を抜いたら、落とされちゃいますからね。厳しいんです。私は、そこを4年で卒業しました。
- 4年で修められた……ということは、優秀でいらっしゃったんですね。
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長縄 そういうことになりますね(笑)。
- 長縄さんはニューヨーク・ベトナム・カンボジア・スリランカ・スペイン・フランスなど、本当に世界中を旅されて、展覧会への出品や個展開催のほか、絵画教室などの活動もしておられますね?
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竹島 この人の海外で最初の個展は、1995年の秋に、ニューヨークのCast Iron Galleryでやった個展なんです。
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竹島 いわば「物語の作り方」を教えたんだよね。
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長縄 それから、2001年の9・11(同時多発テロ)直後のニューヨークにも行きました。ちょうどそのとき、現地での個展(2001年10月2日?13日)に呼ばれていたんです。正直、怖いから、行きたくありませんでしたが、個展を主催する知人から「アメリカは、いま、展覧会のような催しをやめたら、戦争状態になってしまう。今こそ、そういう催しが必要なんだ」と説得されて、行ってきたんです。グラウンド・ゼロの近くには煙が残っていて、髪が燃えた匂いもしました。まだポリスラインが敷かれていて。
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竹島 ビル全体に星条旗を張ってあるところもあった。そのときは、他に一緒に行く予定だった人もみんな取りやめちゃって、僕が絵をみんな担いで行ったんです。
- すごいときに、現地をご覧になったんですね。ほか、2004年のスマトラ島沖地震でスリランカに大津波の被害があったときには、スリランカを舞台に『TSUNAMI つなみ』(たけしま出版、2005)という絵本も執筆しておられますね。
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長縄 津波の少し前に、柏マジッククラブの方が「スリランカでマジックをするから、一緒に来ないか」と誘ってくださったんです。その旅から帰ってきたあと、スリランカに津波が来たんです。
現地の子どもたちは、津波を知らないし、津波への対処法もわからないから、避難について教える絵本を作って欲しいと頼まれたんです。津波のとき、スリランカでは人間は3万人以上亡くなったけれど、ゾウは一匹も死んでいなかったというんです。それで、群れを率いるおばあさんのゾウを主人公に、物語を作りました。絵本に登場するゾウや現地の風景は、津波の前のスケッチをもとにして描きました。それが現地語に訳されて、政府から約10,000冊の絵本が小中学校に配布されました。 -
竹島 絵本の寄贈式のとき泊まったマウント・ラヴィニア・ホテル(小説家サマセット・モームの定宿)で、こんな横断幕が張ってあったんですよ。とっても歓迎してくれました。
■写真:スリランカのマウント・ラヴィニア・ホテルで掲げられた歓迎の横断幕
- 長縄さんのお生まれは東京とのことですが、柏にいらしたのは、何がきっかけだったんでしょうか?
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長縄 うちの父が、新しいもの好きだったから、柏に新しい団地ができたっていうときに、すぐ飛びついて移ってきたのね。
- 初めは、ご家族と一緒にいらしたんですね。その後は、世界を旅しつつも柏で暮らしておられるわけですが、柏や手賀沼周辺の土地は、長縄さんの制作にとって、いい影響を与えているということなんでしょうか。
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長縄 ええ、柏は好きよ。静かな土地で、絵を描くにもいいわね。画材屋さんもあるし。近くの大堀川は、お散歩コースになっているんですよ。それから「手賀JAZZ」や「手賀沼オペラ」(オペラ『手賀沼賛歌』仙道作三・作曲、山本鉱太郎・脚本)では絵を頼んでくださったし、駅前の「いしど画材」さんでは毎週土曜日に絵画教室もやらせてもらっていますしね。我孫子市では「めるへん文庫」の審査委員をやらせてもらって、表紙や挿絵も描かせていただいています。*我孫子市公式ホームページ「メルヘン文庫」のサイト
(https://www.city.abiko.chiba.jp/event /event_moyooshi/melhen bunko/index.html - 地元の方々との交流も、非常に盛んなんですね。
長縄 でも、私より、この人(竹島さん)の出版社のほうが、もっと地元との関係が深いんですよ。ぜひ、宣伝してあげてくださいな(笑)
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竹島 今日はあなたの話でしょう(笑)。……まあ、私はもともと「崙書房出版」という、この地域についての出版をしている会社に20年くらい勤めていたんです。今の「たけしま出版」でも、地元や手賀沼にかかわる本、「手賀沼ブックレット」なんかを出しています。最近では「手賀沼エコマラソン」のブックレットも出しました。
- 利根川・手賀沼の歴史研究をなさっている、中村勝さん(中村順二美術館館長)の本もありますね。長縄さんも、「たけしま出版」さんで絵本やエッセイを出されていますね。
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長縄 昔は、福音館書店さんで絵本を出してたんですけど、地元に根付いているからっていうことで、今は「たけしま出版」さんでも本を出しているわけです。まあ、お金にはならないんですけど(笑)
- 地元のさまざまな活動と縁深い二人ですが、最初はどういうきっかけで出会われたんですか?
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長縄 「手賀沼オペラ」が最初よね。
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竹島 オペラの2回目の上演のとき、僕がパンフレットを作ることになって、この人(長縄さん)が表紙の絵を描いたものですから、そのときに知り合ったんです。親しくなりはじめたのは、一緒にカンボジアに行ってからでしょうか。編集者と作家ですから、ちょうどいい距離なんでしょうね。
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長縄 私なんか、なんでも適当で、散らかしちゃうんだけど、この人(竹島さん)が、きっちりしているから、丁度いいの。でもね、絵って、バランスがとれちゃ駄目なのね。私なんか、描いていてバランスがとれてきちゃったら、それを壊していくのよ。
- 長縄さんは、実にいろいろな画材を使っておられますが、画材に迷われることはないんですか?
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長縄 ありませんね。男の人を選ぶときはじっくり選ぶけれど、画材は迷わないんですよ(笑)。
- 絵が浮かぶと、画材も決まる、ということでしょうか?
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長縄 そうね。描くときは「こう描こうかな」とか「こうしようかな」とか、いろいろ考えると駄目ね。
- それぞれの画法は、やはり学校で習われたんでしょうか?
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長縄 どの画材も、セツ・モードセミナーにいたときに一通りやりました。でも、版画だけは、別の先生について習いましたね。版画は、私が絵を描いて、この人(竹島さん)が版木を彫ることもあるんですよ。絵は描かない人だけど、彫りは上手なの(笑)。
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竹島 「彫ってちょうだい」と頼まれて、やったことはあります(笑)。しかし、この人(長縄さん)が絵を描くときは、本当に、手が自然に動いていくんです。いまは、なんでもデジタルになっていますけれど、「絵」というのは、いわば一番「手作業」として残っているジャンルですよね。この人は、紙を使った張り絵も作っていますし。
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長縄 紙って、きれいなのよ。美しい。和紙から洋紙まで色々あって、スリランカではゾウのフンで作った紙だってある。新潟の「縮」っていう紙は雪の上で仕上げる。触ったときの感触で、いろんなことが分かる。いまの人たちは、モニターでいろんなものを見られるけれど、触ったときの感覚を、どんどん忘れていっている気がしますね。手で触って、これは「何」だ、とわかることが、段々なくなっていっているんじゃないかしら……。便利になっているぶん、失っているものも多いと思いますね。
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竹島 ところでね、この人(長縄さん)の絵は、おもに個展のときなど、銀座の画廊で売っているんですが、画廊の人からは「もっと(絵の値段を)高くしてくれ」って言われるんですよ。でも、この人のポリシーで、高くしない。「普通の家庭のお母さんなんかでも、手の出せる金額にしたい」って言うんです。「描いたら『おしまい』だから、描いたあとのものが、いくらで売られても構わない。描いているときに自分が楽しめたらいい」なんて言ってね。
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長縄 だから、自分の好きな絵を描いて食べてきてはいるけど、裕福でもないし、貧乏でもないっていう感じね(笑)。
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竹島 まあ、貧乏だろう(笑)。
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長縄 そうかもね(笑)。
- いわば、二人三脚で作品を発表しつづけけておられる、という具合なんですね。息もぴったりで素敵です。お二人とも、今日は貴重なお話をありがとうございました。
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長縄・竹島 ありがとうございました。
■写真:たけしま出版オフィスでの長縄さん。
後ろにある絵は、フランス旅行の思い出を描いた最近の作品
(取材日・2015年12月1日・たけしま出版オフィスにて)
世界中で絵筆をふるう
長縄
それまでにも、招待旅行に行ったことはありましたけど、個展をやったのは、それが初めてでしたね。他にも、フィリピンのマニラや、カンボジアのプノンペンで個展をやりました。カンボジア政府に絵を寄贈したこともあります。カンボジアは気温の変化が激しいので、あとで修復にも行きました。
2000年には、カンボジアで、学校の先生に絵を教えに行きました。その先生たちは「読み・書き・そろばん」は教えられるけど、絵の描き方は教えられないって言うんです。だから、紙の中に風景をどう収めたらいいか、なんてことから教えました。カンボジアには、絵本の作り方も教えに行ったわね。ページを開く方向と、登場人物の動かし方をどうするか、とか。横に開く絵本ならこっちに、縦に開く絵本ならこっちに、って・・・。
■写真:「TSUNAMI つなみ」(たけしま出版、2005)