下総玩具作家 松本節太郎さんを語る

ギャラリー・ヌーベル 鈴木 昇さん

   取材:中村み南、清水健一

「下総玩具」の創設者
松本節太郎

松本節太郎

東京・下谷の染色店に生まれ、戦災で柏に移住。戦後、手びねりの土人形を独自の手法で創作し、「下総玩具」の世界を築き上げた。

2004年11月101歳で永眠するまで創作活動を続け、1500種類以上の作品を誕生させた。

ギャラリー・ヌーベル代表
鈴木 昇

ギャラリー・ヌーベル代表鈴木氏

東葛地区の文化功労者に送られる「ヌーベル文化賞」の設立者で、第一回の受賞は松本節太郎氏。その節太郎氏とは長く文化交流を続け作品はもとより、節太郎氏の人となりをもっとも理解する一人である。

ギャラリー・ヌーベル

ギャラリー・ヌーベル
千葉県柏市旭町4-7-1
2階 松本節太郎資料室
(下総玩具展示)

松本節太郎氏 経歴

明治36年
1月29日東京下谷で染物屋の四男として生まれる。
昭和20年
東京都葛飾区で戦災に遭い柏に疎開。戦後ふと土製の人形を作ってみようと思い立ち、裏山の粘土で手捻りして、即製のかまどで焼き、泥絵の具で彩色してみると意外と面白い十二支や七福神の首人形ができた。
昭和23年頃
首人形をリュックにつめ上野の松坂屋前で街頭販売する。その後も浅草や亀戸天神、明治神宮境内などでも売ったが暮らしが豊かになるには程遠く、戦後9年間はランプ生活が続く。
昭和33年1月
日本郷土玩具の会会員となる。
平成9年10月
柏駅西口新設ダブルデッキの側壁に小面約85点が設置される。
平成16年
11月27日、101歳と10ヶ月で永眠。

松本節太郎さんとの出会いと交流

はじめに、松本節太郎さんの作品を評価した理由を教えて頂けますか?

最初に理解しておきたいことは、物を作るに当って、「職人」と「芸術家」という見方があるということです。

「職人」と「芸術家」・・・その区別とは?
下総玩具

職人というのは、伝統的な作り方で、同じものを寸分違わず作る。それは売るためのものであり、生活するためのものです。芸術家は自分自身のオリジナリティーを大事にしますね。独自の作り方で、自分の色や形というものを作っていくんです。

松本節太郎さんはどちらに当てはまるのでしょうか?

節太郎さんの作品に関しては、職人と芸術家、どちらの要素もあるといえます。というか、節太郎さんの作品はもともと食べていくために作られ、売られたものです。しかし、100個同じものを作らねばならない、となった時に、彼はどれも違うものを作ってしまうんです。

それはなぜでしょうか?

同じものを作るよりもバラバラのものを作る方が楽しいし、ちょっとは楽だってこともあったでしょうね(笑)。そこが、時を経て評価されるに当って、「芸術家」と言われているところだと思います。これは職人的要素からは外れていますよね。

今では芸術的観点から作品が評価されている、といった感じが強いように思いますが?

評価というものは徐々にされていくものですからね。作品を制作した当初はもちろん生活のためという目的ですが、現在では芸術作品という位置つけになっています。

線引きが難しい、ということでしょうか?

いわゆるグレーゾーンが広いのでしょうね。職人的な部分と芸術的な部分、両方合わせ持っているものだと思います。また、節太郎さんの作品はとてもわかりやすいですよね。モチーフがはっきりしていて、そしてシンプルです。見ていてとてもわかりやすいでしょう?そこが様々な年齢層の人から支持されている理由だと思います。支持層が広いので、今後、一層、芸術的価値が高くなっていくでしょうね。

節太郎さんがお亡くなりになっていますので、作品数も限りあるものになってしまったということも、芸術的価値を高めている理由になっていますか?
下総玩具

もちろんありますね。また、鑑賞者のこころの中に入り込んでくるような作品、つまり一度みたら、ずっと頭の中に残って離れないというような作品が「芸術」や「本物」といわれるのだと思います。そうでないものはその人にとって響くものではない、つまり本物ではない、ということになるかもしれませんね。だから、私がこうしてギャラリーを作って紹介する、ということは、節太郎さんの作品を評価のために土台にあげる役目をした、といえるのかもしれません。

作品があっても発表する場がなければ人の目には触れませんよね?

そうです。そこが私が貢献できた部分だと思います。生活のために道具として子供のおもちゃを作っていた節太郎さんという人が、一体どんな人でどんなものを作っていたのかという証をのこすことや、その本物を見られることが大切だと思ったので、こうしてギャラリーを開いたわけです。

節太郎さんは「松本節太郎資料室」をどんな風に思っていらっしゃったのでしょうか?

自分のアトリエよりずっと整理されていると、とても喜んでいました。生きている頃は、時々資料室に座って、お客様の質問に答えていました。本当のところ、節太郎さん本人は、自分が死んだ時、作品も一緒に焼くつもりだったんですよ。

わざわざ作ったものを残さず焼いてしまうつもりだったということですか?

彼は明治に生まれた人ですので、自分の作ったものが残るということに対しての照れというものがあったのでしょう。だから作品を残すつもりはなかったんですね。

作品に対する執着などは無かったのでしょうか?

そういうものはなかったと思います。むしろ有名になるのを嫌がっていましたからね。でも作品に対する他人の評価はとても気にしていましたよ。天の邪鬼な性格だと思います(笑)。

評価は気になるのに有名になるのは嫌だというのが面白いですね?
下総玩具

有名になると自由でなくなるのを何より嫌がっていましたね。無名である方が自由で好きなことができるから、そういう理由で有名になるのを嫌がっていたのだと思います。だから写真を撮られることは嫌いでしたね。テレビも自分がでたり、映ったりすることは好きではなかったと思います。

節太郎さんは、なかなか難しい性格のようですが、鈴木社長はどのように交流を深めていったのですか?

節太郎さんと付き合うのにはコツがいるんです(笑)。1ヶ月に2,3回会うとわがままがでるんですね。会いすぎるといけないんです。

どれくらいの頻度だったのですか?

一ヶ月に1回ですね。これがいい距離感だったと思います。何事に置いても言えることですが、「間を読む」ということが大切ですね。また、気持ちが一方通行では長続きしません。僕と節太郎さんの間には何かお互いに響くものがあったのだと思います。

どのようにして仲良くなったのですか?

初めは断られました。全ての人がそうなんですけどね。でもそこで諦めてはいけないんです。かといって、しつこく居座り続けてもいけない。だから僕は断られた時「では、また来ますね」といって再度チャレンジしたんです。

そうして再度行って、どうなったのですか?
下総玩具

もちろん、また断られましたよ(笑)。それを20回ほど繰り返しました。そうすると、向こうも僕のことを「変なやつだな」と思うようになるでしょう。そうなってから、次に訪ねた時は中に入れてもらえました。

根気強さが必要ですね(笑)。

そうです。2,3回で諦めてはいけないんです。「あいつはちょっと違うぞ」と向こうに思わせることが大切です。

でも、そこまでして作品に興味があったということですよね。節太郎さんの作品に興味を持たれたのはどのようなことからですか?

僕は、作品を見て「これは面白いな」と思うと、それを作った人に興味が沸くんです。こんな面白いものを作る人はどんな人だったんだろう?と考えるんですね。

作品から作家に興味が移るわけですね?

そうです。生み出した人自体に興味が向きますね。

節太郎さんの作品には何か響くものがあったということですね。?

もちろんです。繰り返しになってしましますが、彼の作品はわかりやすくシンプルですよね。そして表現がとてもユニークです。色使いも独特なものがあります。

松本節太郎さんとの暮らし

松本節太郎さんは、どのような暮らし方をしていたんでしょうか?
下総玩具

これは近年ですかね?昔から?最近でもいいですか?僕はここ24〜5年の付き合いなんですけれども、その辺からいうと、次女の方が、7〜8年前に亡くなられたんですけれども、その方が生きていた頃は活発に生きていたんですね。

まあ歳でいうと90歳位までですか。でも、次女の方が亡くなってから精神的に落ち込んでしまって、まあ創作意欲がなくなってきたというのが実感ですね、目に見えてわかってきて。

次女の方がいた時は、流れ作業ではないですけど、松本さんが最終的な顔を書くとか、絵を描くとかして、次女の方がそれまでの、型で作ったものなんかを作るとか、それから最後のものなんかをやってという形で、まあ、非常に二人三脚がうまくいっていたんですけれども、結局、お嬢さん(跡取りにあたる)が先に亡くなられたから、本当の元から作る人がいなくなったんです、そういうもの自体を。

そうすると、自分で最初から最後までやらなきゃならなくなると、結局肉体的にも精神的にも大変なんで、制作意欲がなくなっちゃったという。だから、次女の方が亡くなったというのが大きな分かれ目になっているというのが事実です。

では、次女の方が跡継ぎだったんですか?

そうです。松本さんにとってはそうです。まあ次女の方といっても、亡くなった当時で68歳位で、高齢になっていたというのはありますけど。

一つの作品を作り上げるまでの流れを次女の方と役割分担をしていたんですね?

そう、そう。それが切れたというショックは大きいですね。

まあ、暮らしとすると、大体朝、ああいう方なんで8時くらいから普通に起きて食事をして、仕事をして、12時から1時間ぐらい食事を摂って、それからまた始めて夕方5時くらいまでやっているという形での制作が多かったようですね。

時期とすると秋ごろが忙しかったですね。お正月の干支を作るので。時期的には春が意外に暇なんですけど、秋から冬にかけてというのが、比較的仕事としては忙しかったと聞いていますね。

お休みはあったのですか?
鰻

あんまりなかった、日曜日だから休むっていうのはなかったみたいで・・・ほとんど仕事に明け暮れていたという感じが多いですね。

ただ日曜日なんかになると、テレビや新聞はよく見る人だったんで、時間が長くなく、例えば仕事を午後から始めるというのはしていたみたいです。ただ、なんらかの形で仕事に関わることをやっていたということはあるみたいですね。

外に遊びに出掛けることは多い方だったんでしょうか?

仕事イコール趣味みたいなものだから、例えばどこかに旅行するとか、そういう風なことは一切なかったようです。

ちょっとこれは余談ですけど、まあ、僕は笑い話として知っていたんですけれども。松本さんは趣味がないし、どういうことが一番望みと言うか希望というか、やりたいことは何なの?と聞いたら「新幹線に乗ってみたい」じゃないですよ「新幹線を見てみたい」と。

自分はもう汽車にすら乗るか乗らないというか、汽車にだって数回しか乗ったことないし、あまりない人間なのに、時速200何キロとか300キロとかで走る新幹線はテレビとか新聞でしか見たことないけれど、「あれを実物で見てみたい」というのが夢だったという位どこにも出かけなかった。見るだけなら誰だって見に行けるわけでしょう、それですらやらないという。出不精というのが人柄を語っているかな。

好きなことは?
下総玩具

これは公私共に付き合っていたのでわかります。
好きなことは常に新しいものを作りたい、創作ものを作りたいということ、常に情報をがむしゃらに収集していましたね。

どういうことかというと、これは後に出てくる「人生カード」と関連してくるんですけれども、例えば、女の子が猫を負ぶっている作品があるんですが、これは、ただ子守をするんじゃなくて女の子が子供を負ぶえないから、お母さんの真似をして猫を負ぶって、猫が迷惑そうな顔をしていて、それで「迷惑」と言う題名を僕といっしょにつけたんですけれども、そんな風に日常の生活の中でこれはというユーモアのあるようなものを形にしていきたいと。

そういう創作の仕事というものに対してものすごく興味を持っている。だから、好きなことというとそんなことだったですね。
晩年はよく焼き物をやりたいといっていましたね。土での、自分の手びねりというか、焼き物を作ってみたいと。

仕事を通して形あるものをディフォルメしたり、ユーモアを加えて作ってみたいという、ものづくりに対しての好奇心は人一倍ありましたね。

お好きな食べ物は何かありましたか?

好きな食べ物は、江戸っ子だったので、例に漏れず鰻と煎餅。
鰻は好きでねえ、食うの早いんですよ。

よく鰻を、あの柏の「大和田」という店のものなんですが、折箱に詰めてもらって持って行きました。

銀座や新橋で有名なお店だったところですけど、その末っ子が柏に住んでいて、鰻がすごくおいしいと。

天然のものをその場で割いて、一時間以上も待たされるんですけどね。それを食べてもらうんです。

お煎餅はどうですか?
下総玩具

煎餅は草加煎餅。入れ歯だったですけど煎餅好きだったですね。よくお茶菓子で持って行きました。

そういえば、「松本ノート」と僕はいってたんですけれども、大学ノートに、朝食べた豆腐とか納豆とか、そういうもののパッキングの紙、これを全部捨てずに貼ってましたね。

それを、「松本さん、何を食べたかを伝達するの?」と聞いたら、いやあそれもないことはないけど、一番の目的はパッケージのデザインだと、包装紙のデザイン、そういうものを自分なりに勉強していきたいと。それが結局ものの創作にぴんとくるというか。

食べ物もまた仕事につながっている?

そうですね。でも、昔の人って結構そうなんですよね。食べ物なんかでもそういう風にして食べてて、なんかになるんだと思ったんでしょうね。

さきほど次女の方のお話しが出ましたけど、ご家族との関係は?

明治生まれの人はね、そんな家庭のこと振り返りませんから、典型的なワンマンという感じでした。

家庭人としては、おそらく今風にいえば落第でしょうね。絶対的に自分が一番だし、家庭サービスみたいのは、一切しませんよね。

だから本当にわがままだったという話はよく面倒見ていた次女の方から聞きました。何でも「おい!」と言う感じでいってましたから。

奥様は?

おそらく奥さんは80代前半位でお亡くなりになったと思います。松本さん101歳で亡くなったけど、松本さんがおそらく80代半ばくらいのときに奥さん亡くなられたみたいですね。

それでは、15年くらいお一人だったのですか?

そうですね。ただその間、次女の方が7〜8年同居して面倒を見ておられたという感じですね。家庭のお父さんという感じじゃなくて。

お孫さんがいるんですが、上のお嬢さんに女の子と男の子が一人ずついるんですけど、お孫さんとも僕お会いしたけれども「おじいちゃん怖い」という印象は強かったみたいで、本人がそういう風にいってますからね、変わったおじいちゃんだと。

そりゃあ、明治生まれの典型でしょうね。

松本節太郎さんの創作意欲の原点

鈴木さんからみて、松本さんの長寿の秘訣や、作品への創作意欲の原点となるものはなんですか?
下総玩具

うーん、そうですねえ、僕もその部分が興味があって仲良くしていたし、お互いそういう部分を感じ合えるようになったから今日があるような気がするんですね。

その部分が理解し合えて、お互いになんとなく同じ人種だなあということを話していたんです。その辺があったからこそ面白い付き合いができたと思うんですけれども。

それはきっと松本さんの育ってきた環境だとか、まあ四男坊だし、家も出なきゃなんないし、戦争と言う悲惨な、我々にはちょっと想像を絶するような・・・死体もいっぱい見たそうです。
川に浮かんでいる死体を見たり、人の生死というものを見てきたということとか、日本がこれからどうなっちゃうんだろうという問題とか、そういうものを背景にした人間形成っていうのがある意味大きく影響している。

要するに生きていくためには何でもするんだと。それは理屈ではないんだと。自分にはもう何にもない、どうやって生きていくんだという時に、もうゼロからのスタートですから、無人島でのなんとかと同じでね、だからどうやって生きていく、家族を養っていくとなった時に、自分には何もないので、裏山の土をひねったり、残っていた古いものをひっちゃぶいて自分なりの面白い人形を作ったりということから、それがイコール生活になった。

それでそこに住んで、それを亀戸天神から明治神宮からここまで歩いてですね、やっぱり、生活のために生きるためになんでもやるんだというハングリー精神のようなものが、時代とともに普通の人は風化して薄らいでいくのに、あの人の場合は100歳までそれも脈々と持ち続けた。

それがものすごく偏屈でもあるし、エネルギーでもあるし。長所短所がそこに凝縮されているような気がするんですよね。

ぎりぎりのところで生きてきた感覚を常に持ち続けたと言うことですね?
下総玩具

そう。それは常にすごくあって、自分が、今の自分はなんでもできるんだと。

その中で自分がやりたいことの最大公約数というか接点みたいのをみつけながらやってて、だから下総玩具を作っていても、例えば「松本さん、100個売れそうだから作ってよ」というと、結構作んないんですよね。それはなぜかというと、「そんなに俺はロボットじゃないよ」と。
金のために自分をそんなに売りたくないというプライドをもっているんですね。

じゃあ、買わなくてもいいのかというと、そうじゃなくて、例えば箱の中に100個作ったのがあるのに、いっぺんには10個しか売らない、というふうな曲がったところがあったり。

というのは何かというと、もっと高く売れるかもしれないと・・・(笑)。すごい欲もあるんです。

ストイックなばかりではないと?

そう、そう。そこが、ものすごく面白いんですよ。

ストイックなところもあれば、人間的な欲もある?

そう、その出っぱり引っ込みを理解するところまではね、すごい大変ですね。

だから結構松本さんのところに外人とか、六本木とかでこういう玩具が面白いと聞きつけてきて買いに来る人がいるんですよ。そこで、例えば、今日はこんなにお札を持って買いに来たよというところを見せると、そこでもう拒絶反応出ちゃうんですよね。

「俺は金でなんか売るもんじゃねえよ」みたいな感じで反骨精神が出て、「売らない」なんてね、すごい変わっているんですよ。

お金だけをちらつかせると、権力みたいのとイコールと感じるようで。

「お金を持って買いにきたからといって、沢山売るんじゃねえよ」とか、「金儲けというのは全部見せちゃだめだ」とかね、そういうの僕にレクチャーするんですよね。

松本節太郎さんの作品について

作品の素材、作り方を教えて下さい。
下総玩具

まず大きく分けて、「張子」と「土」があります。

「張子」の素材というのは、昔、大福帳とか、和紙に墨で書いたそういう刷り物がかなりいっぱいあった。そういうものを意識的に集めていたというのもありますけどね。それを膠なんかで溶いて固めていくわけですね。

型も自分で作ってました、石膏で。それで、それに和紙を頑丈に貼っていって、自分で色をつけていくわけです。

「土」に関しては、柏市の松葉町が開発される時に粘土質の土がずいぶん出たようで、その粘土を集めて、床下に貯めておいて、それを「野焼き」っていって、土を掘って、一斗缶の中にぶちこんで、破材だとか、そこら辺にある木を裏山で燃やしながら、焼いてそれに色を塗って作る、この二つですね。

その二つ以外はほとんどないですね。

土も柏の土なんですね?

そうです。
節太郎さんは郷土玩具を「その土地で生まれた人がその土地にあるものを使ってつくるもの」という定義付けしています。

節太郎さんは柏市の生まれではないので、本人は「自分の作品は郷土玩具とは呼べない」といっていましたが。

土以外の材料も柏市のものなのですか?

そうです。
藁人形に使われている藁は彼自身が畑を作って植えたものです。といっても作品のためではなく、麦を食べるために種をまいているわけですけど(笑)。

麦は食べ、茎は作品に使っているというわけです。その当時から藁は機械植えでしたので、茎にコシが無いんですね。ですからそれを嫌がって自分で作った、ともいえますので、専ら生活のためだけに麦を植えた、ともいえないのですけれど。

そこには作品に対するこだわりがあったということでしょうか?
下総玩具

こだわりとまではいかないかもしれませんが、単に強い藁が欲しかったのでしょうね。

欲しいものがないなら自分で作ればいい、という考えの人でしたから。無いなら自分で作る、というのが基本スタンスですね。後は、自分で作れば、人に頭を下げて藁をもらう必要もなくなりますしね(笑)。

「作るべくして作った」と言えるでしょうか?
そうですね。ほとんど生活上の必要性からですね。もちろん、芸術的観点からではなかったでしょうね。
他にはどんな材料がありますか?

でんぷんのりですね。これはご飯から作ります。膠も自分で作っていました。松脂を鍋で煮て作ります。

彼の作品の材料には輸入品は一切ありません。

まさに自給自足ですね。
そうです。身の回りにあるものを使っているんです。本人は「何も難しいことはない」といっていました。
生計をたてるためのものが、なぜ「下総玩具」だったのでしょうか?

彼は「こどものおもちゃ」を作りたかったのだと思います。
玩具もいってしまえば生活のための道具ですね。そのような、生活に根ざしたものを作りたかったのでしょう。

作り方も先ほど述べたように、全て自作の形でできるわけですし。

制作の動機が全て「生活のため」というのは興味深いですね。
下総玩具

ですから厳密に「芸術的作品」とはいえないんですよね。生活のためですから、職人的要素の濃いものになるはずなんです。でも節太郎さんの性格による工夫や創意が作品に現れ、現在では芸術的価値の高いものになっている、と言うのが正しい見方だと思います。

作品に対する彼の姿勢が、作品そのものによく表れていますよね。

「人間的」といえばいいでしょうか?

そうですね。人間臭さが出ていますよね。

それがいちばんの魅力であるように思います。

そころで、染色の色ですが?

胡粉(ごふん)つまり貝殻を粉にしたものですが、そういうのを買ってきたりして、本当に純然たる、日本に昔からある材料で作っていたんです。

絵の具自体も、泥絵の具と言う、古来の顔料絵の具を自分ですり鉢ですって作っていたんですね。で、接着剤は全部膠です。
だから節太郎さんの家に行くと、膠のね独特の臭いが、家中にしみこんでいる感じで、それを鍋で煮詰めながら溶いて作っていた。

あと、近年は、ボンドが出て、ボンドを実際は使っていました(笑い)。

近代的というと近代かな、という感じでしたね。でも、相性とするとやはり膠がいいなといっていました。

自分の作品に対する「お気に入り」や「特別な思い」はあったんでしょうか?
作品

そうですね、最初は「天神様」、昔から菅原道真の天神様はどこでもあるんで、天神様を作ったんですけれども、やはりみんなが作っている形を真似るのがすごくいやだったんですね。
真似するのもいやだし、されるのも嫌だという、ものすごい強烈な意識をもっていて。自分なりのオリジナルの形で、そこからデフォルメしていったりしながら作りたいという、ものすごい個性が強い人だったので。

天神様から始まって、それ以外だと「首人形」ですね。昔から首人形みたいなものはあるんですけれども、それを一躍有名なものにして、面白い形にしていったというのは節太郎さんだと思うんですけれども。

伝統的にあるもの以外に、そこから脱皮して、色、形を自分で作っていきたいというのがあったので、「招き猫」だって、もともと日本古来にあるようなものを土台にしながら、自分でそれをアレンジしていく、というのが多かったと思いますね。
時代背景をつかみながら、それを形にしていくということが本人が一番やりたかった仕事みたいで。それが節太郎さんのオリジナル作品になっていくんじゃないかと思うんですけどね、創作ですね

自分の色、形で作ったものがどうなるかということにものすごく興味を持っていたし、チャレンジしていたというのがありますね。だから招き猫だったり、天神様にしても、種類があれだけ多くなっていくと言うのは他の人ではちょっと考えられないですね。

作品の中で、「紅毛人」とか「花魁」ってありますよね?こういった人形があるのはなぜでしょうか?
作品

おそらく節太郎さんの人間性というか、自分の育ってきた環境に左右されていると思うんですけど。

やはり明治生まれで、大正から昭和初期にかけての、自分の多感な時に、染物屋の四男坊だったということで、浅草の下谷なんですけどね、それで当時外人が珍しい。外人と言うのは赤毛なんで「紅毛人」と。紅毛人、紅毛人と呼んでいたというのが、我々が外国の人を呼ぶのと同じように呼んでいた、非常に物珍しく、遠巻きに見ていた。それが非常に印象深かった。

「花魁」もそうなんですね。花魁も結局、子供心に見ていたけれども、非常に面白くて、よく花魁のあとを追いかけてついていったそうです。なんでだろうというと、面白い形をして、きれいな着物を着て、風貌が面白かったというのが子供心にある。

紅毛人もそうなんですね。そういうものに非常に興味があって、それがやはり、幼年時の思い出として、それを形にしてみようと。
だから、「紅毛人」も「花魁」も、ものを見ないで、みんな頭の中に入っているんです。

なんか花魁の帯の結び方とか、いろんな形と言うのは記憶に入っていて現物を見ているから、非常に詳しかったですよ。イメージとしてもう刷り込まれちゃっている。その辺はすごいですね。一つの形を作るとまた次の形というのが自動的に出てくる。だから結局バリエーションが増えてくという感じだったみたいですね。要するに、そういうものを形にするのが好きだったというのがありますね。

「人生カード」というのがありますよね。それについて教えてください。
人生カード

これはね、さっき言ったのと連動してくるんですけれども、「人生カード」というのは、何か形を昔からあるのを作るというんじゃなくて、例えば水たまりの猫とか、水たまりの犬でも猫でもいいんですけれども、要するにそこに映って鏡の代わりに水たまりに映る自分の顔をなんかこう、面白げに見ている犬や猫があったら面白いだろうなと。
それを作ってみるとか。形にするとか。例えば、犬小屋の猫とかね。犬小屋には普通犬がいるんだけど、猫のほうが威張って、で、隣にでっかい犬が困った顔をしているとか。そういうユーモアなものを先に思うんですね。

で、それをこのお菓子の空き箱とか広告の裏だとかに、フェルトペンで思いついたとき書いていく。よく我々なんかでも、枕元にメモ用紙をおいて思いついて書くとかありますよね、そういうのと同じように、常時身の回りに、メモ用紙とペンと鉛筆を置いておいて、思いつくとそれに文字や絵で書いていく。

それを今度は自分の創作の作品に「これを形にしてみようかな」というものを徐々に形にしていく。という風なことをされていた。思いついたものを形にしていくのが好きだった。

それを「人生カード」と読んでいたんですか?

そうです。僕が行った時も、もう何百枚と古積にしていましたね。

その中から、「こういうのどう思う?」と他人からみたらどうなのかというのをよく聞かれましたね。

簡単に言うと「ネタ本」ということですか?

そうそう、それを節太郎さんが「人生カード」と読んでいました。

「雨だれ」という作品では、節太郎さんは、「自分の分身である」とおしゃったと聞きましたが・・・?

それはおそらく、次女の方がなくなってから思いついたんだと思うんですけれども、だいぶ前に私も聞いたんですが、形になるまで7〜8年かかってますよ。

自分ももう90を越えたし、いつ死んでもおかしくない歳だと・・・で、自分の人生を振り返った時に、人生なんて雨だれみたいなもんだと。
軒先から落っこちて地べたに着くまでの一瞬のようなものを自分の人生と置き換えているんですね。

で、もうすぐ自分は地べたに吸い込まれて土になるんだから、雨だれなんかも作ってみて、それを自分の人生と置き換えていたというか。雨だれを形にするとどんななんだろうと。

三角形の小さなものを手びねりで作って、冬場なんか寒いもんですから、炬燵に入っている時に、粘土を持って来て、それをテレビ見ながら手でひねって、それを掘りごたつの下に突っ込んでいて、僕なんかいくと足元にごろごろあるからなんだろうと思ったら「いやこれは土を乾かしているんだよ」と。まだ本当の土が三角形になっているだけなんですね。だからなんなのかなと思ったら「雨だれの材料だよ」と。

それが乾いたら色を塗って?
作品

そうです。でそれに目や鼻や口をつけて雨だれとする。

自分ももういつ死んでもいいから、これを自分の分身としてね、最後の作品として作っておきたいんだけど、といっていたんで、「いやあ、だったらそれはもっとたくさん作ったほうがいいんじゃないですか」ということで煽った記憶がありますけど。

最終的には「雨だれ」はたくさん作ったのですか?

その、三角にひねったのは何百という形で作っていましたけど、最終的に色をつける段階は本当に100歳になってから。

テレビに出る時に、少しずつとか。本当に色づけして完成品になったというのは数十個しかないですね。
結局それを作る意欲みたいなものがだんだん半減してしまって。それでおそらく途中状態になったというのが多いですね。

それが彼の最終作品になりました。

まあ、自分で雨だれになって地べたに吸い込まれていくっていうのが、まったくそうなってしまったいうのと、本当にクロスしていますね。

100歳のチャレンジ

100歳になった節太郎さんは、どのようなことを考えていたのでしょうか?
道具

100歳といってもいろんな100歳がいるけれども、100歳で何を考えて何をしているかが大事すよね。節太郎さんは100歳になって、病院も、入院してから、そうですね、3ヶ月経つか経たないかで亡くなっているんですね。だから本当にこう、いい死に方というか、苦しまずに死んでいるという感じなんですけれども・・・

僕なんかも、(節太郎さんが)100歳になった時に話したんですけれども、自分の作品は全部燃やして棺おけに入れて、自分は一代で亡くなるんだから、娘も先に逝っちゃったし、それはもうなくしていいんだという考えで、一緒に俺と燃やしてくれなんていわれたんですけれども。

それも一つの方法でしょうと、でも100歳になったんだから、日の目を見てね、自分でそのテレビ・新聞にも出てね、自分の作品がどうかという風に開き直るのも一つの方法じゃないですかと僕がちょっといったら、じゃあ、あんたに任せるからやってみたら、ということで。

それで100歳の個展もやったし、NHKにも出たし、まあ100歳の人が何を考えているかというのは僕自身も興味があったんでね。で、そういうことが話せる段階だったし、なんでもこちらとして興味があったんでね。

聞けば、それなりに結構返してきますね。100歳というと、例えば節太郎さん、欲だとかね、そういう何をしたいという意欲というのはどうなの?と聞いたら、驚いたことに頭の中は人間ってあんまり老化しないんだな、肉体は老化しても。ということは、話し方のテンポだとか、自分が創作するだとか、やりたいことへのチャレンジだとか、そういうことってものすごくテンポが速いんです。それだけすべて頭の中で、何かを考えていたんです。おそらく証明していると思うんだけれども。

たとえば焼き物をやってみたいとか、それから絵を描いてみたら?といったんですね。そしたらチャレンジしてみたいと。それからあとデザインですね。デザインも自分なりのデザインを考えてやったらというんで。ちょっと天邪鬼なところがあって、自分は自分でいいんだという意識も持っているんだけれども、他人様から見られたらどういうんだろうかということも、結構意識はしていた。

そういう意味で100歳になってもやりたいことって沢山あるんだけれども、作ったから、じゃあ、それがどういう風になるんだっていうことではなく、とにかく自分で何かを作ってみたい、自分自身へのチャレンジみたいな、そういう気持はものすごく強かったですね。

100歳になったからといって達観しているわけではなく、迷いなど人間として生々しい部分をお持ちだった?

そうそうそう。

一般的な100歳の方と比べると、どうなんでしょうか?
竹とんぼ

そうですね。ただ節太郎さん自身が特殊なのか、それとも歳を取るとああいうふうに皆なっていくのかって考えますよね。まあ、節太郎さん自身は、世間でいう人間嫌いな部分があったりなんかしたんだけれども、人間としてはある意味純粋なところがあって。

ちょっと話をさかのぼると『竹とんぼ』っていう「郷土玩具の会」があるんですけれども、そこに、初めて、最初で最後になるだろうという原稿を書いていたんですね。その原稿なんか見ると、本当に自分で自問自答しながら書いている。

ある時、竹とんぼの会で若い人に「節太郎さんの作っているものは本当に郷土玩具なんだろうか?」ということをいわれたらしいんですね。郷土玩具というのはその土地で生まれ育った人がものを作って初めて郷土玩具という風なことになるのに、節太郎さんが、千葉に疎開していて、作って、自分で下総というところには郷土玩具がないから、下総玩具という形で作ってやってきたけど、それが本当に郷土玩具なんだろうかなんていう考え方を疑問視された時に、自分でも感じるところがあったんだろうけど、会もそのまんまずっと出なくなっちゃったし、殻にこもるようになった。ある意味ではすごい純粋ですよね。

逆にそれに反発しながらという部分もあるんだろうけど、なんか常にクエスチョンを持ちながら自分でも創作をしていたというのは感じていたみたいですね。僕なんかがいうのは、だって最初からどこにもあったもんじゃないんだから。もう誰かしら最初は作っているんだから、じゃあそのケースはどうなるんだいうようになるんだから。節太郎さんは最初の人なんだから、そんなことに耳を傾けてたらきりないから、もっと自分に感じるものを作っていけばいいんじゃない、と僕は結構煽りました。

下総玩具

世間でいうと、売れてるからいいもんだという観点も本来おかしいものなんですよね。だから本当にものづくりする人というのは、売れているからいいもんじゃないんですよ。それは後の時代が評価するのかもしれないけれども。自分が創作する時に、いいと思うものが本当にいいもので、節太郎さんがNHKに出た時も、ものづくりするのは、売れるか売れないか意識しながら作っているものもあれば、楽しみながら作っているもんだってあるんだよということは、ずっと強調していっていましたね。

だから売れる売れないじゃなくて自分の気持の中から湧いてきて、こういうものを作ってみたいという純然たるものづくりの思いというのが、こういう形になったというのが僕はすばらしいと思う。それは本人も売れる売れないは考えていないですよね。だからやっぱり、そこで素晴らしいものが生まれてくるんだなあと。

そういったものを聞き出すというのは僕も興味があったし、そういう点で議論すると、延々と何時間でもしゃべっていましたね。

松本節太郎という人は、あまり今の人たちとはどこか交わらない、そういう部分もあったんで、あの人は理解するというより感じるしかない。理解しようとするとずいぶん矛盾したところが出てくる。でも単純に節太郎さんの作品見ると、この人の多様性というか、これで満足しないという・・・

世間でいえばチャレンジというんだけれども、自分自身湧いてくるものを素直に形にしていって、どんどん増えていった。そこがある意味面白いところであって、その人の生き方なんだなあと。僕が共鳴するところです。

●「竹とんぼ」の松本節太郎氏の文章はPDFでご覧頂けます。竹とんぼPDFファイル

人間関係を絶った生活をしながら作品に多様性をもつ、興味深い節太郎さんですが、100歳までバージョンアップし続けた精神的な強さはどこからくるのでしょうか?
下総玩具

明治という時代に生まれて、文明開化というのかな、そういった加速度的に変わっていく時代にいたからであって、これから100歳になっていく我々を含めてね、激動の時代というか、どこを切り口として100年を見るかと。

だから時代的に、明治から昭和、平成と、時代的に、特に思春期の多感な時を明治・大正で過ごしたということは、日本の時代の変貌を目の当たりに見ていくというのが、彼の人間形成の中で大きく影響しているのかなあと、ちょっとオーバーにいうとね

それはすごくあると思うし、あとすごく劇的に社会批判しているんですね。新聞とかいろんなの見て。この世から電話とテレビと車がなくなればいい、その三つが悪いんだと。

それは面白いんですよ。僕がなんで?と聞くと、電話がなくなれば昔みたいに手紙や話をする、字も書くし覚える、人の気持ちが通じる、確かにそうですよ。現に今、携帯なんかが流行ったためにいろんな社会問題おきてるでしょう、これは非常に面白い考え方。テレビができてから人間だめになったという。テレビが出たことによって新聞読まなくなった。テレビも使い方によるんだけれど害にもなる。テレビ人間になっちゃったことで便利なんだけれども、その障害がかなり見えてくる、テレビに憑かれていると。で、テレビもなくなればいいと。車に関しては車がなくなれば、公共機関も発達するし、人も歩くし健康にもなるという形で、車なんか必要ないんじゃないかと。極論ですけどね。下総玩具

その三つがなくなるとこの社会もっとよくなるよということは一生懸命いっていましたけれどもね。ある意味では核心をついているなと、変に納得したんですけどね。だから、そういう風に批判しながら、自分が昔のものをいっぱい作っていきたいということも考えていた。

社会批判もするんだけど、それを形にするにはどうしたらいいのかということも節太郎さんやってみると面白いよね、チャレンジしてみるか、ということはよく話ししていましたね。

ありがとうございました。

(取材:中村み南、清水健一)